<どうなる安保法制>「平和の党」公明党はどこへ 薬師寺克行・東洋大教授
集団的自衛権の行使などを柱とする安全保障政策の新しい法案が閣議決定され、国会審議が始まります。連立与党の自民党と公明党は昨年来、法案の内容について協議を続けてきました。その過程で公明党は、自衛隊の活動範囲拡大に積極的な自民党に対して、集団的自衛権行使に厳しい条件を付けるなど「ハト派」的役割を果たしたと評価する意見があります。一方で、「平和の党」を看板にしている公明党が集団的自衛権を容認したことは、政権与党に執着しているだけだと正反対の評価も出ています。一体、公明党とはどういう政党なのか、検証してみます。
もともとは日米安保の段階的廃棄論
新党が頻繁に生まれては消えている近年の政界の中で、公明党は昨年、結党50年を迎えた歴史の長い政党の一つです。元をたどれば宗教団体の創価学会であることは言うまでもありません。創価学会は1954年に文化部を設置し、地方議会や参議院選挙に候補者を立てて当選者を出しました。その文化部が公明政治連盟となり、そして64年11月に公明党結党に至ったのです。この時の参院議員は15人、地方議員は1000人を超えていました。 当時の公明党は創価学会との一体性が強く、綱領などの文書には宗教用語があふれていました。宗教的な部分を除いて党の目的などをわかりやすく整理すると、冷戦下の世界情勢を資本主義と社会主義の体制に分かれ人間疎外、人間性の抑圧が起きていると指摘し、日本の政治についても既成政党がいたずらに権力闘争に明け暮れ腐敗していると批判しています。そして、あらゆる階層の民衆を包含する大衆政党を目指すことをうたっていました。 外交・安全保障政策については、平和憲法の擁護、国交のなかった中華人民共和国の承認と国交回復を掲げていました。日米安保条約は「当然、解消されなければならない」としながらも、「いま直ちに廃棄するわけにはいかない」として「段階的廃棄論」を主張していました。
180度転換した安保政策
公明党は「平和」と「福祉」が看板でしたが、次第に革新色を強めていきました。 1968年に在日米軍基地が抱える環境や騒音などの問題を徹底的に調べる「総点検」を実施して、大いに注目を集めました。さらに長崎県・佐世保港への米原子力空母エンタープライズ入港に反対するデモを行うなど革新色を鮮明にしていきました。国会での与野党の議席が肉薄する保革伯仲時代に入った1973年には、日米安保の「即時廃棄」、「自衛隊は違憲の疑いがある」など、社会党や共産党とあまり変わらない政策を党大会で決めました。社会党や共産党と組んで政権を獲得しようという連合政権構想が背景にあったのです。 ところが自民党政権はなかなか倒れませんでした。一方で「非武装中立」論など原則論を掲げる社会党などとの政策の違いが次第に大きくなってきました。野党との連合政権に展望を見いだせない公明党は現実路線に大きく舵を切ることになるのです。1981年の党大会で、日米安保は「日本の安全に一定の抑止的役割を果たしていることは否定できない」として存続を認めました。自衛隊についても「有権者の8割が自衛力の必要性を認めている」と容認したのです。 政治路線も社共両党に距離を置き民社党や自民党の一部に接近するようになりました。1990年にイラクがクウエートに侵攻した湾岸危機が起きると、自衛隊を国連平和維持活動(PKO)に参加させるPKO協力法を自民党、民社党とともに成立させました。 そして1993年に念願の政権を手に入れました。自民党が分裂し総選挙に敗れると、自民党を離党した小沢一郎氏の新生党などととともに非自民連立政権樹立に成功したのです。ところがわずか1年で崩壊、さらに小沢氏らと作った新進党も3年ほどで解党してしまいました。