皇室へのバッシング なぜたたかれるのか 眞子さんの恋愛
皇室のメンバーへの激しいバッシングが起きることがあります。成城大文芸学部教授の森暢平さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】 【写真まとめ】NYに到着した小室圭さんと眞子さん 21年当時の様子 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇建前が崩れている ――なぜ批判されるのでしょう。 ◆昭和40年代には皇太子だった前の天皇陛下、今の上皇さまが批判されました。平成になると、やはり皇太子だった今の天皇陛下や雅子さまが批判されました。天皇自身や制度を批判するのではなく、比較的弱いところに向かいます。 今は、それだけでは説明できないところがあります。 20世紀型の福祉国家が1990年代後半ごろから崩れてきます。従来の福祉の対象にならない新たな弱者が増えています。典型的には非正規労働者や、結婚制度から外れる人たちです。 皇室は、社会を統合し再配分する、20世紀型の慈恵主義の象徴でした。福祉の対象にならない人たちの不満が大きくなると、社会全体を統合する皇室の建前が崩れます。 そのために、皇室そのものが批判される構造になっています。皇室が国民全員に慈恵を施すと思わせることができなくなっています。 ――批判されやすくなっているのですね。 ◆従来の価値観に不満が向けられ、陰謀論が生まれやすくなっています。陰謀論は決定の過程がわかりにくいところに向かいますから、皇室は対象になりやすいのです。 これからの皇室は、バッシングされることを前提にしなければならなくなっています。 ◇バッシングと賛美は裏表 ――皇室に理想を求める考え方もあります。 ◆不安の時代に、みなが皇室を参照するようになっているからではないでしょうか。 社会が上向いている経済成長の時代はみな皇室を忘れていました。ところが、90年代後半ごろから、皇室の注目度は高まっていきます。経済の不調や自然災害など、人は不安になると、超越的な何かを求めやすくなります。 その結果、過剰にモデルを求める一方で、過剰な批判も生まれています。賛美とバッシングは、表裏の関係にあります。 ――特に家族を巡っては、伝統を守ることが要求されます。 ◆皇室の「室」は、家族のことです。皇室自体が家族のモデルとして作られたということです。 近代家族という概念があります。お父さん、お母さん、子ども2人がいて、マイホームで区切られるイメージです。そこでは恋愛と結婚と生殖が一体になっています。 しかし、これはイデオロギーです。実際の社会には、結婚しない人も、同性同士のカップルもいます。子どもを作らなくてもいいし、1人でも大人数でもいいのです。世の中にはさまざまな価値観があるし、あるべきです。 社会が変わっている時に、皇室だからといって、恋愛をして、子どもを作って、「理想」の家庭をつくるべきだと考えることには無理があります。皇室にも結婚しない人、子どもを作らない人が出てくるのは必然です。 ◇眞子さんの恋愛は違った ――小室眞子さんは違うように見えます。 ◆眞子さんの恋愛は近代家族的な恋愛ではなかったように見えました。枠から飛び出ているからバッシングされたのです。 私は、おかしいのではないかと思い、擁護の側に回りました。しかし、皇室には「理想の家庭」を営んでほしいという、伝統的な価値観にとらわれている人も多いのです。 実際には、秋篠宮家も普通の家族です。娘が親の気に入らない相手と結婚することはよくあることです。 ――モデルを求められる当事者にとってはたまりません。 ◆憲法学者は人権は皇室のメンバーには適用されないと言いますが、その先は考えてくれません。眞子さんは事実上の亡命のようにみえます。 ――男の子を産めと言われるのも不合理です。 ◆皇室の問題は、本当は私たちの問題です。皇室を考えることは私たちの家族をどう考えるかということです。 跡継ぎがいなくなった時に、どうするか。墓じまいをするようになっています。かつての公家や大名家でも、跡継ぎがいない家が急に増えてきました。皇室も家族が変わる潮流のなかにあります。 ◇やり放題はいけない ――バッシングはひどいものです。 ◆バッシングはやめるべきだとなりがちですが、甘受しなければならない部分もあります。言論の自由の問題があるからです。「失礼だからやめろ」という議論がありますが、戦前の不敬罪と同じ論理になるのは危険です。 それにしてもデマが永遠に拡散される状況にはストップをかけなければなりません。 宮内庁も言わなければならない時は反論し、世論とコミュニケーションをとるべきです。ネット世論や一部週刊誌のやり放題を許すのはよくありません。(政治プレミア)