村上春樹『風の歌を聴け』が表現する日本的感性 「他人とは分かり合えない」から始まる人間関係
■全体のなかの「一人」であることの自覚 浜崎:なるほど、藤井先生の言葉を聞いていて思い出しましたが、2009年に春樹がエルサレム賞授賞式で「壁と卵」のスピーチをしましたよね。あれを聞いたとき、とっさに思い出したのが福田恆存の「一匹と九十九匹と」というエッセイだったんですよ。つまり、「九十九匹」っていうのが、春樹の言う「壁=システム」で、「無常感」のない物差しの世界です。対して、「一匹」というのは、すぐに割れてしまう「卵=弱い孤独な人間」で、要するに、物差しでは測ることのできない滅びゆく実存です。それで言うと、春樹はこの「一匹」の世界を徹底的に描くんですよ。だから「九十九匹」の世界に対してデタッチメントにもなる。
ただ、春樹と福田の違いを言えば、福田恆存の方は、実は「一匹と九十九匹」だけで終わらないんです。その後に、「九十九匹」から零こぼれ落ちた「一匹」をこそ支える「全体」について語り出すことになる。つまり、どんなに孤独で、どんなに絶望してても私は生きているわけで、生きている限りは世界に対してコミットメントするわけで、その能動性を与えているもの、孤独な私を支えているものについて、やっぱり福田は語らなければならなくなると。そこで福田恆存が語ったのが、「歴史」や「言葉」や「自然」などの手触りだったわけです。その意味で言えば、春樹が描くのは、未だ「全体性」に支えられる前の「一匹」の世界とも言えるかもしれません。
藤井:そうなんですよ! 浜崎:だから、その後の95年あたりから、「一匹」を超える「歴史」を描き出すと。それが『ねじまき鳥クロニクル』あたりからということになるのかな。 藤井:僕にとっては、そのあたりから、村上春樹は甘い人物に見えるようになりましたね。僭越ですが、今の僕の「世間とのコミットメント」する実力から言うと、村上春樹は「甘すぎ」であって、「なんなんやその、ぬるいコミットメントは!?」みたいになりました。もういい大人なんだから、タダ単に震災について取材したりすればええってもんとちゃうぞと(笑)。もうその頃から村上春樹さんは単なる凡庸な左翼に見えるようになりましたね。かつての初恋の人を久々に見てみたら、なんだかその辺の、ちょっとだけ自意識の高い普通の俗物オバサンになった、みたいな話です。