アカデミー賞®︎ノミネート『落下の解剖学』―――見どころを監督ジュスティーヌ・トリエの言葉から紐解く
作品賞をはじめ第96回アカデミー賞®︎5部門にノミネートされた『落下の解剖学』。単なる崩れゆく夫婦の関係を描いた作品ではなく、そこには様々な人の目から見た夫婦の姿が言葉によって描き出される。監督のインタビューから作品の真意を解きほぐす。 【写真を見る】人の言葉に焦点をあてるため取った大胆な手法とは?
■物語のあらすじ サンドラはドイツ人のベストセラー作家。夫であるサミュエルの故郷であるフランスの雪深い山里で、視覚障害をもった息子のダニエルと愛犬スヌープとともに家族3人+1匹で暮らしていた。ある日、ダニエルがスヌープの散歩から戻ると、血を流し倒れているサミュエルを見つける。ダニエルの叫び声でサンドラが駆けつけるもサミュエルは既に息を引き取っていた。検死の結果、死因は事故もしくは第3者の殴打による他殺、もしくは自殺とみられ、サンドラは容疑者となってしまう。裁判で夫婦の知られざる関係性が明らかになり、唯一の証人であるダニエルの負担は増していく。果たしてサンドラは無実なのかーーー裁判は混迷を極めていく。 ■妻の言い分と夫の言い分、そして巻き込まれる子供 サンドラはベストセラー作家だが、夫のサミュエルは作家を目指すもうまくいかず、教師をしながら家事を担っている。性への考え方や家事分担などリベラルなサンドラに対し、サミュエルは保守的で、夫婦の関係性は徐々にバランスを崩していた。お互いにとっての平等とは何なのかに折り合いがつかず、ダニエルが視覚障害をもつことになった経緯も、二人の関係がもつれるきっかけに。ダニエルは両親がそんな状況であったことを裁判で初めて知り、衝撃を受ける。自分の証言次第では、母親が有罪となってしまうかもしれないという責任を、小学生が背負うことになるのだ。なんという悲劇だろうか。 ダニエルは最後まで中立を保ち、誰の側にもつかないようにしようと努力する。人一倍正義感が強く、物事を客観的に捉えることに長けているが、たった一人で闘う姿に胸が張り裂けそうになる。夫婦関係の転落を表現した作品と監督はいうが、愛を失ってしまった夫婦とともに生きる子供の苦しみを描いた作品でもあると思う。そんな複雑な役どころをミロ・マシャド・グラネールは見事に演じた。 ■発想のきっかけは人気ドラマシリーズの『マッドメン』 サミュエルは自宅の3階から落下して死んでしまうが、本作は”落ちる・堕ちる”ことをテーマにしている。サンドラは階段を降り、山から街へ下り、人生は転落していく。 「私は『マッドメン』のオープニングで男が落下していく場面を見てからずっと、”物体の重さ”の感覚と、”落ちる”という感覚がどのようなものなのかということに関心を持っていました。”落ちる”ということに対する執着が、この映画全体で繰り返されているんです」(監督のジュスティーヌ・トリエ、以下同) そして物語の核となるのが、第一発見者である息子ダニエルの証言だ。 「この夫婦の一人息子は、裁判で家族の過去が徹底的に探られる中で、両親の関係が波乱に満ちていたことを初めて知ります。最初は母親を全面的に信じていた彼も、裁判が進むにつれて疑念を抱くようになり、それをきっかけに彼の人生は変わっていく。物語は、この変化を追っていくんです。私の過去の作品の子供たちは、背景的で静かな存在でしたが、本作では、物語の中心に子供の視点を取り入れ、主人公サンドラの視点と並べることで、様々な出来事をバランスよく描き出したいと思ったんです」 ■生々しく熾烈な法廷シーン 物語の舞台は夫婦の自宅から、登場人物が次から次へと質問されていく法廷へと移る。まるでドキュメンタリーのような法廷シーンも本作の見どころのひとつだ。映画やドラマで度々目にするアメリカの裁判とは違い、フランスの裁判は検察や弁護人などの座る位置や、検察と弁護人の服装が異なり、音楽が転調したときのように、心地よい違和感に惹きつけられる。裁判は、形式張っておらず比較的自由度があるゆえ、検察の追求は苛烈さを極め、観ているものに不快感を与える。 「今回、アルチュール・アラリと私は、執筆作業を分担して共同で本作の脚本を仕上げました。その過程で、ヴァンサン・クルセル=ラルースという刑事事件専門弁護士から、裁判のシーンなどに非常に貴重な指導を受けたんです。これにより物語の専門的な部分を正確に表現でき、フランスの法廷で審理が行われる過程をより深く理解できたと思います。また、映画のペースを落としてショットを不完全な状態に保ち、少々不安定で生々しい感覚が残るように編集しました。洗練されすぎて、意外性のない作品にはしたくなかったんです」 ■言葉に焦点をあてるために取った大胆な手法 本作は裁判を扱っていながらも、1シーン以外、回想シーンがないのも特徴的だ。 「最初から、回想シーンは使わないと決めていました。必要ないと思っていましたし、何よりも人の口から発せられる言葉に焦点を当てたいと思ったんです。裁判では真実を掴むのが困難であり、人が発する言葉で埋めなければならない空間がある。音を使うことだけは例外として認めましたが、これは回想ではありません。夫婦が言い争うシーンは、録音された音声がスクリーン上で突然展開し、臨場感を作り出す。それが空間を生み出すんです。その方が映像よりもパワフルだと思います。また、ダニエルが亡くなった父親の言葉を再現する場面では映像が登場するけれど、それは記憶であり、事実ではないんです。検察官が指摘するように、証拠のない証言なの。基本的に法廷では、自分の歴史が自分のものでなくなってしまいます。他人によってあちこちに散らばった不確かな要素を組み合わせて審判がくだされる。つまり歴史が虚構になってしまうの。私はそんな点に興味を引かれたんです」 通常映画を見るとき、観客は特定の人物に感情移入しがちだが、本作ではそれが見事に移り変わっていく。驚きや疑念、悲しみなど、まるで監督の意のままに操られているかのように感情が溢れ、気持ちを寄せる登場人物が変化していくのもおもしろい映画体験だった。 ■注目の映画監督、ジュスティーヌ・トリエのプロフィール ジュスティーヌ・トリエは、パリの国立高等美術学校出身。長編映画2作目である『ヴィクトリア』は、2016年カンヌ国際映画祭批評家週間のオープニングを飾り、長編映画3作目である『愛欲のセラピー』は、2019年カンヌ国際映画祭のパルムドール候補に選出された。『落下の解剖学』はトリエの長編映画4作目となり、2023年カンヌ国際映画祭公式セレクションのコンペティション部門でプレミア上映され、パルムドールを受賞。第81回ゴールデン・グローブ賞では、4部門でノミネートされ、脚本賞と非英語作品賞を受賞した。 『落下の解剖学』 2024年2/23(金・祝) TOHOシネマズ シャンテ他全国順次ロードショー
編集と文・遠藤加奈(GQ)