「国鉄」の悲惨すぎる大失敗...春闘を牽引した「労働組合」が圧勝した理由
安倍元首相が国士と賞賛した葛西敬之が死の床についた。政界と密接に関わり、国鉄の民営化や晩年ではリニア事業の推進に心血を注ぎ、日本のインフラに貢献してきた。また、安倍を初めとする政治家たちと親交を深め、10年以上も中心となって日本を「事実上」動かしてきた。 【漫画】「しすぎたらバカになるぞ」…性的虐待を受けた女性の「すべてが壊れた日」 本連載では、類まれなる愛国者であった葛西敬之の生涯を振り返り、日本を裏で操ってきたフィクサーの知られざる素顔を『国商』(森功著)から一部抜粋して紹介する。 『国商』連載第9回 『国鉄の転落は「新幹線建設」から始まった…国鉄が終わりのない借金地獄に陥ったワケ』より続く
増える借入金
優男に感じた入社当初の第一印象とは打って変わり、再会した葛西はやり手の課長補佐に成長しているように感じた、と須田が述懐した。 「国鉄の赤字は、昭和40(1965)年代の半ばに四桁の1000億円を突破してしまいました。赤字が急増する大きな原因の一つが、昭和47(72)年の運賃値上げ問題です。3月に国会に値上げを申請したところ、たまたま沖縄返還協定が審議される国会と重なってしまいました。 運賃の値上げ法案は衆院を通過したものの、参議院に移った段階で国会はストップ。47年の運賃改正法などの法案審議は時間切れで廃案になってしまいました。国鉄運賃改定があんなに簡単に駄目になるのは大ショックで、翌48年にもう一回値上げ申請を出し直し、ようやく昭和49(74)年に実施された。 しかも経済対策閣僚会議で揉め、値上げの実施日がさらに半年もずれ、この年の10月まで延ばされた。延びた2年半、数千億という運賃の増収分が消えてしまい、この分だけ借入金が増えたわけです」
「マル生闘争」の末の経営危機
1955年から始まった自由民主党と日本社会党の二大政党を中心としたいわゆる55年体制の真っただ中のことである。 国鉄運賃の改定は常に与野党の国会審議で火種となり、簡単に決着できなかった。このときの運賃値上げでいえば、東京~大阪間の1等特急料金が1969年の6130円から1974年には7010円と880円上がった。その値上げでさえ、実に5年ぶりの運賃改定だった。国鉄の赤字は財投を受け皿にした鉄道債券の発行で賄っても足りない。利子だけで年に1000億円以上が吹っ飛び、それを運賃値上げで賄う悪循環が続いた。 おまけに国鉄の経営悪化の要因はそれだけではない。もっと深刻なのが、労使対立による労働組合運動の過熱である。労働組合運動については経営側の落ち度も少なからずあり、事態をややこしくしてきた。 労使関係が極めて悪化した最初は、1960年代後半だろう。はじまりは経営合理化に対する国労や動労(国鉄動力車労働組合)の反発だった。車両技術の進歩に伴い、機関車がそれまでの蒸気から電気やディーゼルへと替わり、機関助士が不要になる。加えて石炭やボイラー用の水を補給する動力基地が廃止され、その人員も余った。 このとき国鉄では佐藤栄作内閣で任命された磯崎叡新総裁体制で「生産性向上運動(マル生運動)」と称した経営の合理化に乗り出す。民間企業と同じような職員教育を日本生産性本部に委託し、経営効率化の名の下、強引な人員削減を始めた。 すると、国労と動労が猛反発した。世に「マル生反対闘争」とも伝わる。組合側の情報提供により、マスコミが国鉄の無茶なクビ切りを大々的に報じ、不当労働行為が次々と発覚していった。挙げ句、生産性向上運動は佐藤政権に対する政治問題に発展する。