「生きてたのか」山口組組長射殺の指示役逮捕 山一抗争、銃撃された捜査員36年目の独白
岡田さんらを襲った山口組系幹部はその後、逮捕されたが、岡田さんは「『抗争は終結する』という噂が流れ、気が緩んでいた。親分を殺された組員が簡単に終わらせるわけないのに」と悔やむ。山一抗争などを背景に平成4年、暴力団対策法が施行。暴力団組員は急減しているが、市民が危険にさらされる状況に変わりはない。
山口組から神戸山口組が分裂して来年で10年。この間、発砲を含む襲撃事件が相次ぎ、両組織は特定抗争指定暴力団となった。岡田さんは「山一抗争当時の雰囲気と似ている」と危機感をあらわにし、「警察は本気で暴力団を壊滅しなければいけない」と語気を強めた。
■血で血を洗う全面戦争
一般市民や警察官を巻き込み、死傷者が計約100人に上った「山一抗争」。4年9カ月にわたった史上最悪といわれる暴力団抗争は、血で血を洗う全面戦争の様相を呈し、市民らの暴力団排除の機運が高まる大きなきっかけともなった。
発端は、昭和56年に死亡した田岡一雄・山口組3代目組長の跡目争い。当時の竹中正久若頭と山本広・組長代行を推す勢力が対立。竹中若頭が4代目に就任すると、山本代行派は脱退し、新組織「一和会」を結成した。
当初は一和会が数で山口組を上回っていたが、ほどなくして復帰する組員が相次いだことなどで、逆転した。「一和会は長く持たないだろうという見方が強かった」。元山口組系組長で、現在はNPO法人代表として元暴力団員の更生などを支援する竹垣悟氏はこう振り返り、こうした油断こそが暴力団史を揺るがす大事件の一因になったと指摘する。
60年1月26日夜、大阪府吹田市内のマンションで、竹中組長ら山口組幹部3人が一和会系組員らに銃撃され、組長は死亡。これを機に抗争は激化し、同年の暴力団の対立抗争による事件は前年比約2・7倍の約300件となり、うち8割以上で銃器が使用された。
平成元年3月の一和会解散をもって抗争は終結。竹中組長射殺事件は実行犯らが逮捕されたが、犯行を指示したなどとして殺人容疑で指名手配された一和会系幹部の男は逃走したまま、12年に公訴時効が成立した。
男は今年9月、射殺事件とは無関係の名誉毀損容疑で長崎県警に逮捕された。死亡説も流れていただけに、捜査関係者の間に「まだ生きていたのか」などと驚きが広がったが、時効によって殺人罪には問われない見通しだ。