「義父母と妻に子どもを押し付け…」生まれたばかりの赤ちゃんに会えなくても、私が“捕鯨船”に乗り込んだワケ
美保は「それに」と笑った。 「子どもが三人いたから、待っている時間が苦にならなかったのかもしれません。三人いれば、何かしら思いもよらないことが起きますから」
毎回大泣きした理由
陸に残された家族は、反捕鯨団体による妨害活動をどのように受け止めていたのだろうか。 シーシェパードが矢部たちが乗り込む調査捕鯨船団に妨害を繰り返したのが、二〇〇七年から二〇一六年にかけて。毎年冬に妨害活動はニュース番組で取り上げられた。 美保は不安と怒りを素直に口にした。 「怖かったです。映像を見たら、海賊みたいだし。毎年毎年、いい加減もうやめてほしいと思っていました。私の職場で働くおじいちゃんたちも、一緒になって怒ってくれたり、心配してくれたりして……」 いったん間を置いて彼女は「私自身は、万が一の覚悟をして、主人を送り出していましたけど……」と続けた。 「主人が……いえ、主人だけではなく船のみんなが無事に帰ってくるように、私には祈ることしかできなかったんです」 妨害活動の終盤、長女は一〇歳、次女は八歳になっていた。二歳だった三女とは違い、二人には記憶が残っているだろう。美保は言う。 「もちろんお父さんと離れるのが、寂しかったとは思うんです。でも、見送りで毎回大泣きした理由は、それだけではなかったのかもしれません。上の二人は、ニュースを見てなんとなく知っていたのかなって。お父さんたちの船が妨害活動を受けていることを─。それに、日新丸では火災や事故で人が亡くなっていますよね。危険な現場だというのは、娘たちにも伝わっていたんじゃないかと思います。私自身にとっても、ちょっとそこまで出張に行く夫を送り出すのとはわけが違いましたから」 しかも衝突の現場は遠く離れた南極海だ。通信長である津田の妻、玲の思いからはもどかしさが伝わってきた。 「主人が誇りを持って、捕鯨という仕事に打ち込んでいるのを私も知っていますから。妨害がなくなり、安心して安全に仕事ができる状況になってほしい……。私には、そう思うことしかできませんでした」
山川 徹/Webオリジナル(外部転載)