長野智子“論破文化”に危惧「グレーの議論が大切」 新番組で大切にしたい“モヤモヤ感”
フリーアナウンサーの長野智子(61)が、4月から文化放送で新番組『長野智子アップデート』(月~金 後3:30)をスタートさせる。「今日起きたニュースを丁寧に振り返るとともに、最新情報もいち早くアップデート」する番組となるが、長野にとってはおよそ40年越しとなる“リベンジ”がかかっている。 【写真】笑顔でインタビューに応じる長野智子 ■ラジオで「ありがとう」を伝える難しさ 横澤彪からの“金言” ――大学在学中には文化放送『ミスDJリクエストパレード』に出演されていました。当時は、どんな感じで放送をされていたのでしょう? 深夜12時半に番組が始まるのですが、基本的にディレクターさんの指示を聞きながら進行して、とにかくリクエストはがきを読んで曲紹介するという担当でした。やっていくうちに「本当に向いてない」と思って、半年でやめてしまったんです。毎回すごく怒られるんですよ。当時、ディレクターさんから言われたことで印象に残っていることがありまして。リクエストをくださったリスナーの方に「どうもありがとう」と伝えるのですが、ディレクターさんによると「君の『ありがとう』は、マイクの向こうにいるリスナーに伝わってない。ありがとうっていう気持ちが、リスナーにきちんと届くしゃべり手はいっぱいいるんだ」と。そういったこともあり、結果的に半年でやめることを決断しました。 ――でも、結果的に「人前に出る」アナウンサーという職業に就かれました。 これが本当に運命というか、不思議だなと思うんですけども。大学4年生の時、ラジオの現場ですっごく怒られたディレクターさんと、ばったり会ったんです。そこで、就職の話になりまして「今、教職を目指しているんです」と伝えたら「もったいないな。アナウンサーを受けないの?」って返されまして(笑)。「一番、アナウンサーに向いていると思ったから厳しくしたんだよ」と話してくださって、そういう風に言ってくれるということは、もしかしたら本当にそうなのかもしれないと。あとは、マイクの向こうに気持ちを伝えられるしゃべり手になれなかったという後悔も残っていて。もしかしたら、もう一度そういうことに挑戦できるチャンスなのかなと思って、このタイミングでアナウンサーの試験をやっているところを調べてみたら、フジテレビ1社だけ残っていたんです。ここがダメなら、もうあきらめようと思って受けたところ、なんとフジテレビに採用されました。 ――入社当時から「報道」を志望されていたのでしょうか? 志望するなんておこがましい…というくらいの状況でした。私の同期、三宅君や軽部君などがいるのですが、みんなアナウンス研究会などの出身で、私はアナウンスの勉強をまったくしていなかったんです。入社の1ヶ月前からアナウンス研修をやるのですが、みんなと比べてできないことが多くて、研修の先生から「週末私の千葉の家まで来て、練習しましょう」っていうような状況でして、何がやりたいなんて余裕がなかったです。 当時、上司の露木茂さんから新人アナに何をやりたいか聞かれたことがあって、三宅(正治)くんは「僕の出身の広島カープの優勝の試合の実況やりたいです!」と目標が明確ですごいなと聞いていて(笑)。私は、そもそも学校の先生になりたかったから「民放のセサミストリートみたいな番組がやりたいです」とか言って逃げようと思ったら、露木さんから「フジテレビに、そんな番組ないよ」って言われて「ほんとすいません」みたいなスタートでした(笑)。 ――フジテレビでは、はじめの頃、何の番組を担当されたのでしょう? 最初は『夜のヒットスタジオ』という歌番組の海外レポーターでした。アーティストの中継をしたり、あとはスタジオで通訳みたいなこともやったのですが、当時は英語学科卒と言っても英語をそれほど喋れなかったので、もうどうしようって…。アワアワしていたら、芳村真理さんから「ちゃんとしなさい!」って生放送で叱られて(苦笑)。 その年の8月12日、日本航空123便墜落事故が起きました。私も取材に行ったり、お手伝いをする中で、報道に携わるみなさんが本当に懸命に事実をつかんで伝えようとする姿を見て「この仕事をやってみたい」という気持ちになりました。それ以来、、上司にも「私、報道をやりたいです」と伝えるようになるんです。その秋から『スーパータイム』という、当時逸見政孝さんがやってらっしゃる夕方のニュースがありまして、私は天気予報の担当になりました。その後、2年目の春から今の『めざましテレビ』枠でキャスターになったんです、先輩のアナウンサーと2人で。これは、希望通りにニュースの道を歩んでいるのかなと思っていたら、天気予報のコーナーがあってそれが「踊る天気予報」っていうコーナーでして…。クロマキーをバックに、私が踊りながら天気予報を毎朝伝えるコーナーだったんです。 その番組を『オレたちひょうきん族』プロデューサーである横澤彪さんが毎朝見てたらしくて、変わったアナウンサーだなと。ぜひひょうきんベストテンに使いたいと指名してくださり、「ひょうきん族」を担当することになりました。最初は本当になじめなくて、大変でした。ニュースを担当している時は、ここがダメだというのがわかるので、それに応じた練習方法があるのですが、『ひょうきん族』の現場では、台本を見ると「楽しいおしゃべり」としか書いてなくて(苦笑)。ディレクターさんから「流れを乱すな、空気を読め」って言われて、そういう世界だったので、どうしていいかわからなくてなって、本当に最初悩んでいたんです。 あまりに悩みすぎて、休日になると新幹線で大阪に行き、劇場で朝から晩までお笑いを見て、メモを取ったりしていました。努力の仕方がわからなくて、当時はそれしかできなかったんですよね。そんな時、横澤さんのところに行って正直に悩みを相談してみたんです。そうしたら、横澤さんが次のような言葉をかけてくれたんです。「たけちゃん(ビートたけし)、さんちゃん(明石家さんま)みたいな天才が世の中にはいて、そういう人たちは壁にぶつかると自分の力で乗り越えていくんだ。でも、長野みたいな一般人は乗り越えようとすると壁から落ちて怪我するから登らないでいい。その代わり、ずっと壁の前で諦めないでウロウロしていなさい。そのうち壁に扉が現れたら、それを開けて扉を開けて向こうに行けばいいから」。その途端に楽になって、なじむことができました。