挺身隊員だったことは長く夫にも明かせなかった…「今も胸が痛い」 韓国での訴訟計12件で全て原告勝訴、「日本政府は傍観せず手助けを」
韓国人の元徴用工や元朝鮮女子勤労挺身隊員らが日本企業を相手取った損害賠償訴訟で、韓国最高裁は昨年12月から今年1月、5年ぶりに判決を言い渡した。2018年の3件と合わせて計12件の訴訟は全て原告が勝訴した。一審、二審では同様の訴訟がまだ残っているが、最高裁で係争中だった一連の訴訟の結論が全て出そろった。日本側はこれまで賠償に応じていない。 【写真】挺身隊訴訟で韓国側に抗議 日本政府「極めて遺憾」
韓国の尹錫悦政権は昨年3月、韓国政府傘下の財団に賠償金相当額を肩代わり支払いさせる「解決策」を発表した。しかし、この「解決策」は一部原告の反発などにより、完全な実現が危ぶまれている。元挺身隊員で存命の原告は、日本政府は傍観するのではなく「手助けを」と訴えた。(共同通信ソウル支局 富樫顕大) ▽元挺身隊員「解決なく、寂しい」 1月25日、機械メーカー「不二越」を相手取った元挺身隊員らの訴訟3件の判決が出た。その2日前、原告の1人、李慈順さん(92)のソウル近郊の自宅を訪問し、動員当時の状況や今の思いを聞いた。 李さんは1932年1月、韓国西部・群山で生まれた。日本の植民地だった当時、小学校では朝鮮語の使用が禁じられていた。朝鮮語授業は1週間に1回だけだったと記憶している。日本人教師の「金を稼げて勉強もできる」との説明に、行き先も分からないまま、13歳になってすぐ、挺身隊として富山の不二越の軍需工場へ渡った。
寄宿舎では「ご飯はおわん半分。空腹だったことを思い出し涙が出る」。朝食が足りないので昼食用のパンも先に食べ「昼は工場でただ座っていた」。母が編んだセーターを農家で豆と換えた。服も足りず、工場の紙やすりのような物を下着代わりにしたという。空襲警戒のため、靴を履いたまま寝かされていた。 日本の敗戦後、地元に帰ったが、日本軍の従軍慰安婦だったと誤解されることを恐れ、恋愛結婚した夫には挺身隊員だったことを長く隠した。 不二越を巡っては、1990年代に日本で訴訟を起こした元挺身隊員らと2000年に和解し、不二越は解決金を支払った。李さんはそうした元挺身隊員に続き、2003年に日本で不二越を提訴、裁判闘争を始めた。 挺身隊として動員された過去のため「今も胸が痛い」。慰謝料などを求める訴えを「不二越は90歳を過ぎるまで解決してくれず、とても寂しい」と嘆く。そして「私たちはとても苦労した。日本政府も解決へ手助けをすべきだ」と望んだ。