能登の避難所で生きた「記憶」 案内し慣れた展示物を「本当に必要になるんだ」と初実感した熊本県立震災ミュージアム職員
◆家の再建、罹災証明、仮設住宅…日に日に変化する相談内容
熊本地震の教訓を世に残そうと、熊本県南阿蘇村に昨年7月に開館した県立の震災ミュージアム「KIOKU」。その職員が、今年1月の能登半島地震の被災地で避難所運営を担った。熊本地震後に南阿蘇村に移住した市村孝広さん(33)だ。発災翌日に現地に向かい、住民から聞いた熊本地震の体験談を生かして支援に走り回った。同館に新たな役割が生まれた。 支援物資置き場になった小中学校の体育館。市村さんはここで寝泊まりした=1月6日、石川県珠洲市(市村孝広さん撮影) 食事の配布時間、シャワーの利用案内、トイレ掃除のやり方…。熊本地震で大きな被害を出した旧東海大阿蘇キャンパスに立つKIOKUの館内には、土砂に押しつぶされた車や道路標識などと並んで、文字が書き込まれた段ボール片が数点並ぶ。避難所のルールを示した掲示物で、実際に地震後に使用されたものだ。 「案内し慣れた展示物なのに、本当に必要になるんだと能登で初めて実感した」。市村さんはそう話す。 能登半島地震が起きた元日夕。同館統括ディレクターの久保尭之さん(33)から電話を受けた。「もっと被害が出てくる。行ける?」。テレビの映像はまだ遠くの出来事にしか見えなかったが、行くべきだと感じた。車に荷物を詰め込み、2日正午に出発。金沢市を経て4日夜に石川県珠洲(すず)市に入った。 避難所となった沿岸部の小中学校に物資を届けると、対応してくれるのは高齢者ばかり。600人が避難しているのに、市職員もボランティアもいない。 現状報告すると、東日本大震災と熊本地震の支援経験がある久保さんは「人の入り方がかなり遅い」と驚いた。当初は支援団体の調整役を担うつもりだったが、市村さんがこの避難所を運営することになった。 市村さんは大阪府出身で、同キャンパスで学んだ東海大農学部の卒業生。地震後の村が気になって2021年に戻り、地域おこし協力隊として被災集落の支援をしながら、避難生活の苦労を多くの住民から聞いた。 最初はパンでもおにぎりでもありがたい。物資が充実すると内容に不満が出る。風呂に入りたい。トイレが少ない。被災者同士が小競り合いになる-。聞いた話と同じ状況が目の前で起きていた。「だから、次に何が求められるか想像がついた」。体育館に泊まり込んで支援の調整を進めた。 熊本からの支援者と分かると、誰かが毎晩のように相談にやって来た。家の再建、仕事の再開、罹災(りさい)証明、仮設住宅…。相談内容は日に日に変化していく。誰もが熊本のたどった道のりを知りたがっていた。「被災者が不安なのは、この先に何が起きて状況がどう進むのかということ。地震を経験していない自分でも役に立てると分かった」 市村さんと入れ替わりで、久保さんと別の職員もこの避難所を3月中旬まで支えた。同館のガイド約50人は今、能登半島での仲間の経験も来館者に語るようになった。久保さんは「熊本地震だけでなく、その後の災害での知見もアップデートして伝えていくことがこの施設の新たな役割になる」と話す。 市村さんはかみしめる。「災害が起きた地域はつながることができる。記憶と記録は無駄にならない」 (森井徹)