下重暁子と秋吉久美子が語る母の死。死の恐怖に打ち克っていた母と死の恐怖におびえていた2人の母
母は強い意志をもって生き逝った
下重: 願いのある人生のほうがずっと面白いでしょ。願いがない人って、ちょっともったいない。「本気で願えば叶う」ことは、母から学びました。生前、「おばあちゃんと同じ日に死にたい」って口癖みたいにいっていた。 「おばあちゃん」とは、母のお母さん、つまり私の祖母のことね。驚くべきことに、母が亡くなった3月18日は祖母の命日だった。宣言どおりに逝くなんて、すごい人だと驚嘆しましたよ。死に方というのは、生き方でもある。母は強い意志をもってそのとおりに生き、逝ったんです。 秋吉: お母さまは、おばあさまをリスペクトしていたんですね。精神的支柱のような存在だったのでしょう。 下重: 祖母は93歳まで生きましたけれど、雪深い上越の地で、骨身を惜しまず福祉に尽力していました。親のいない子どもたちのために、自分が働いてつくったお金を亡くなるまで寄付していたんです。それで表彰もされていました。 そんな生き方、精神性を母は誇りにしていた。祖母は私がテレビに映るのが大嫌いでね、きっと一度も観たことがないはずです。NHKでアナウンサーをしていた頃は、毎日のようにテレビに出ていたのに。 秋吉: 公共放送であっても、認めていなかった? 下重: 彼女にとっては、NHKも民放も、報道もバラエティも一緒だったのでしょう。そもそもテレビを持っていませんでした。あえて家に置かなかったの、「そんな“浮ついたもの”は観たくない」って。 それで私がテレビに映ると、近所の人が「暁子さん、出てるわよ」って祖母を呼びにきたんですって。そのたびに「暁子はどうしてあんな仕事してるのかしら」って不満げだったそうです。 秋吉: どんなお仕事だったら、喜んでくれたのかしら。 下重: 医療や学問の道に進んでもらいたかったんだと思う。祖母の二人の息子、つまり私の叔父たちは見事に医者と学者になりました。 秋吉: お母さまとおばあさま、ひょっとすると下重さんの進路について意見が一致していたのでは? 下重: ううん、母は「暁子は自分で決める子だから」と半分諦めていたと思います。 秋吉: 下重さんの性質を深く理解しておられたのですね。お母さまは、心が通じるおばあさまの背中をみて自分の命の終え方をイメージしていた──つまり、すでに死の恐怖に打ち克っていたのかもしれません。 下重: 確かに。彼女に怖れはなかったんじゃないかな。 秋吉: 心の準備ができていた、ともいえそうです。 下重: 死が訪れたのは、わりと急のことだったの。母が81歳の時に脳梗塞の発作が起きて、救急車で救命救急センターに運ばれました。人懐こい人だったから、同じ病室の患者さんたちとさかんに交流していたんですよ。一人ぼっちはいやだと、個室を断って。 この時に知り合って、母が亡くなったあとお墓参りに通ってくれるかたもいました。日頃から「暁子にめんどうをかけたくない」とくり返していましたが、入院してからは1週間ももたず、意識がなくなって3日後に最期を迎えた。命の危険が迫ると、母の身体につながっている装置が鳴るの。ピーピーピーって、トラックがバックする時に鳴るのとそっくりな音。 秋吉: よくドラマのシーンでありますね。 下重: あの音が鳴る度に、ドキンとした。何度目かのアラームで、母は静かに逝きました。願ったとおり、祖母と同じ3月18日に。