旧海軍航空基地の防空壕を初公開「何のために…」新たに見つかった“謎の部屋” 戦後は東大の実験フィールドに
土の下から新たに見つかった部屋
木々を搔き分けながら防空壕がある小高い山を5分ほど登ると、40㎡にも満たないほどの広場があります。 「これまでもコンクリート製の構造物があるのは分かっていましたが、それが何なのかは分かっていなかった」 調査前、広場には少しだけむき出しになっていた2つの構造物以外に、あったのは土や木々だけ。ただ、1か所だけ不可解に土が“へこんだ”部分がありました。 「もしかして何かこの下にあるのかも…」 職員らの違和感をもとに業者と掘削作業を開始。土を1mから2mほど掘ってみると、新たなコンクリート製の天井のようなものに到達したのです。
そこで、すでに見つかっていた2つの構造物の土も掘り進めてみると、地下室につながる入口を発見。 「新たに見つかった天井は地下室の天井で、この2つの構造物は地下室への出入口だったと考えられます」 専門家にも意見を仰ぐと、地下室のコンクリートの造りが防空壕よりも丁寧で、資料と照らし合わせるとおそらく通信室か指揮所のような使われ方をしていたのではないかということ。 広大な敷地な上、軍事施設であり詳細な資料も多く残っていない松山海軍航空基地。調査によりその全容を解明する一助となる地下室が新発見されたのです。
この遺跡をどうしていくのかは未定
県埋蔵文化財センターの藤本さんは「県内の戦争遺跡の調査事例も少なく、これらの調査データは貴重なもの」と話します。成果は6月にも近所の公民館で報告会を開いて、市民に共有する予定です。 しかし、もともとは松山外環状道路の予定路線と重なるため調査された遺跡です。これらをどのように保存していくのか、または保存しないのかは工事実施事業者が決定することですがおそらく未定とのこと。 1945年5月に松山海軍航空基地が空襲を受けた際も、これらの防空壕に弾薬などの資材や軍関係者はもちろん、付近の市民も一緒に逃げ込んだ可能性も否定できないということ。 太平洋戦争が徐々に遠くなっていく中、遺跡が果たす役割はいったい何なのか。私たちが考えるきっかけになるはずです。