大谷翔平が躍動した2024年の60年前に初の日本人メジャーリーガーは誕生した
2024年のメジャーは、ドジャース・大谷翔平の50本塁打―50盗塁の大活躍、そしてオフに入って佐々木朗希の争奪戦と話題に事欠かなかった。今や日本メディアでのメジャー野球の露出は、日本プロ野球に引けを取らない。 【写真】真美子さんと幸せオーラ満載の秘蔵ショット! そしてさかのぼることちょうど60年前、1964年に日本人初のメジャー選手が登場した。“マッシー”こと左腕の村上雅則さんだ。今年11月に行われたゴルフコンペにも元気に出席されていた80歳の村上さん。その時にもお会いしたのだが、私はこれまで何度も村上さんから直接お話を聞く機会に恵まれた。 1962年、法政二高3年生の秋に南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に入団。1963年からプロ野球で研修制度がスタートすることになり、高校生は100試合出場できないことになっていたことで、62年の入団が期待され、それがかなった形だった。 とはいえ、この入団がすんなり行ったワケでもない。当時南海の指揮官だった鶴岡一人監督は、息子の泰さんが法政二高野球部で村上さんの1学年下という縁もあり、チームが東京遠征する度に、山梨の村上さんの実家まで車で向かって入団交渉を続けていたという。村上家は家族そろって大学進学とプロ入りを断っていたのだが、鶴岡監督の「(南海に)入ったらアメリカに行かせてやるぞ」の言葉に心変わりしたそうだ。 南海では、全国的に知られていた中京商から同期入団となった林俊彦投手が、1963年春に入団即渡米しキャンプを経験していた。村上さんに声はかからず。「(渡米の話は)口約束だったのかな」と思ったそうだが、2年目となる1964年のキャンプで鶴岡監督から「渡米させるから住民票などを用意しろ」と言われた。宮崎商・高橋博士、銚子商・田中達彦の新人2人と旅立ち、留学生としてジャイアンツのマイナー組織に送り込まれた。 他の2人はルーキーリーグで留学期間を終えてシーズン途中に帰国したが、村上さんは違った。1Aフレズノで11勝7敗、防御率1・78、スリークォーターから直球とカーブだけで106イニングを159奪三振と好成績を残したことがジャイアンツ首脳陣の目に留まり、8月末にメジャー昇格した。9月1日、ニューヨークのシェイ・スタジアムでのメッツ戦でデビュー。9月29日のヒューストン・コルト45S戦(現アストロズ)で登板した試合は、後に太平洋クラブ入りするマテイ・アルーのサヨナラ本塁打でジャイアンツが勝ち、村上さんが初勝利を手にした。 オフになると、ジャイアンツから翌1965年の契約を提示され、サインした村上さん。しかし、留学生としての派遣と考えていた南海は、ジャイアンツとの契約を無効として、村上さんに南海と契約させた。ここで日米での争奪戦が勃発。日米のコミッショナーが間に入って、最終的に1965年シーズンはジャイアンツでプレーすることになった。 交渉に時間がかかり、1965年の初登板は開幕から28日遅れ。そのため45試合の登板に終わったが、4勝8セーブをマークした。この年、ジャイアンツはドジャースに2ゲーム差で2位に終わり、村上さんが登板するまでの23試合は、10勝13敗と負け越していた。それでジャイアンツファンは「村上が開幕からいれば…」と嘆いていたという。 1966年から南海に復帰し、その後は阪神、日本ハムと渡り歩き通算566試合に登板し103勝82敗30セーブ。リリースポイントを下げた1968年には勝率1位に輝くなど、足かけ日米で20シーズンをこなした。 その後、村上さんは数々のチャリティ活動に参加をした。また、昨年11月には米国の著名な外交官の名前から創設され、日米交流に貢献のあった人物に贈られる「マーシャル・グリーン賞」を授与された。スポーツ界からは初の受賞だった。表彰理由として、日本人大リーガーが活躍する架け橋を築いたと、先駆者としての多大な貢献が認められた。 2021年に野球文化学会のトークショーで「メジャーでもっとやっていたかった。私がもう少し長くやっていれば、(1995年の)野茂より早く誰かがメジャーに挑戦していたでしょう」と語っていた。日本人メジャー第1号という金字塔は色あせないと私は思う。 蛭間 豊章=ベースボール・アナリスト
報知新聞社