朝日新聞「池上コラム」問題でも注目 新聞社における「経営と編集の分離」の原則とは?
編集権をめぐる本当の論点
新聞協会の「声明」に代表される編集権の考え方に対しては、ジャーナリズム研究者が以前から異論を唱えていました。報道の「商業主義」が強まる現代においては、経営側は簡単に外部勢力と結び付くため、「編集権は経営が持つ」という姿勢は、組織内記者の活動締め付けにつながり、報道や言論の多様性を失わせる、という論点が一つ。もう一つは、日本の編集権論争には「情報の受け手」が抜け落ちたまま行われており、どんな修辞が施されていても実態は「経営VS労組」「企業VS外部勢力」という狭い範囲の独善的な内容でしかない、という考え方です。 この視点を掘り下げてゆくと、「会社員かジャーナリストか」「報道機関は営利であるべきか非営利か」といった問題に突き当たりそうです。 日本とは雇用や企業形態が異なりますが、第1次世界大戦時の経験などを通じ、早くから「商業主義と報道の自由」のぶつかり合いに気付いていた欧米では、さまざまな試みが続いてきました。米国では古くからの「自由で責任あるプレス」という考え方の下、放送を中心に「報道へのパブリック・アクセス」が拡大しつつあります。市民が取材・編集したものを公的電波に乗せるという発想であり、「報道は市民のもの」との考えが下敷きになっています。 ドイツでは歴史的に「報道の内部的自由」という考え方が発展してきました。実務面でもそれは形になっており、企業内記者たちが「編集綱領」を作成し、編集に関する記者の権利をそこに盛り込んだ上で経営側と協定を結ぶ例が多々あります。 インターネットが発達した現在、報道の仕組みは激変しています。「編集権」をめぐる議論に必要なのは、何よりもプロセスの透明化。それがないと、情報社会の主役たる市民は報道内容の適否すら判断できません。先に示した朝日新聞の「見解と取り組み」では、「関与の責任が明確になるよう、ルールをつくります」と明記されました。それがどこまで具体的かつ詳細に説明されるか。成功すれば、日本の先駆事例になるかもしれません。報道界だけでなく、情報の受け手もじっくり注視する必要がありそうです。