サッカー日本代表から消えた怪物「ケガして以降…」「なんで評価されへんねん」小倉隆史に平山相太、“堂安律が愛した天才パサー”の挫折
怪物・平山は潜在能力抜群ながらムラがあった
<名言2> 性格の問題でもあると思うんですけど、自分の弱さでもあるし、そこは反省点です。 (平山相太/NumberWeb 2018年11月30日配信)https://number.bunshun.jp/articles/-/832668 ◇解説◇ 小倉の苦悩から約10年後、日本の泣き所とされるFWで再び“怪物”と称されたのが平山だ。選手権で2年連続得点王に輝き、飛び級でアテネ五輪最終予選に出場し、本戦メンバーにも招集された。さらには筑波大学時代にはオランダのヘラクレスに加入し、1年目の2005-06シーズンにいきなり8ゴールを挙げるなど、日本の得点源としての期待が大きく膨らんだ。 しかし、結果的にこのシーズンが平山のキャリアハイとなった。 ヘラクレスで指揮官交代によって序列が下がると2シーズン目が始まってほどなく退団し、FC東京に加入。ナビスコ杯決勝で優勝を決定づけるゴールや、A代表デビューとなった2010年アジア杯最終予選でいきなりハットトリックを決めるなど、ツボにハマった際の決定力は潜在能力の高さを見せた。しかし「ムラがある」とも指摘されたように――コンスタントにゴールを奪えず、リーグ戦2ケタ得点をマークしたことがなかったのも事実だった。
本田圭佑に比べた際の「自分の弱さ」とは
平山が触れた「自分の弱さ」の正体とは、一体なんだったのか。 それは南アフリカW杯以降、日本代表のエースとなった同世代の本田圭佑らの「絶対に負けないという芯の強さ」と、自らを比べてのマインドセットだった。 2011年以降、平山は度重なる大ケガを負い、全盛期の輝きを取り戻すことなく2018年にスパイクを脱いだ。その年から仙台大学の学生として授業を受ける傍ら、サッカー部のコーチなどを務めた。 その後は母校・筑波大学のコーチを経て、2024年から仙台大サッカー部監督に就任し、さらには春から教員としても教鞭を振るっている。挫折の経験を指導者として生かそうと、育成年代で貢献しようとしている。