行政として初めて水俣病の責任を謝罪 元水俣市長の吉井正澄さん「人たらし」の魅力
【追悼評伝】
吉井正澄さんは人たらしだった。 無論、ご当人にたらしこんでいる自覚はなかっただろう。元水俣支局長の私も含め、人柄に接した者が勝手に、立場や主張を超えて知らぬうちに吉井ファンになっていったのである。 「水俣病問題に係る懇談会」委員として記者会見する吉井正澄さん(右)。患者を支援する加藤タケ子さん(左)、作家の柳田邦男さんも同席した=2006年9月、東京 豊かな人間味にあふれていた。 熊本県水俣市長当選後に単身、水俣病患者団体の会長宅を訪れた。市役所には背を向ける強硬派団体である。何と切り出そうか。怒鳴られたらどうする。気後れ。逡巡(しゅんじゅん)。玄関に立つまでに海沿いの集落にあったえびすさんをしばし眺め続けたそうだ。けれど、後に会長は言ったという。「たった1人で来てくれた。あの訪問で惚(ほ)れた。吉井市長でなく、男・吉井に惚れた」 国や熊本県の反対を押し切り、行政として初めて水俣病の責任を謝罪した。1995年の水俣病政治解決には舞台裏で奔走。水俣病資料館の語り部にも患者、被害者を招き入れた。亀裂の入った水俣市民間の心の修復を目指した「もやい直し」や、環境先進の町づくりエコタウン事業、胎児性患者たちへの支援。多くの取り組みを進められたのも、市長という以上に、みんなが吉井さんその人を好きだったことが作用したと思う。 根底には「患者さん側の言うことは筋が通って間違いがない。患者さん側を変えられないのなら、自分の側が変わるしかない」「世代を超えた禍福の相殺」との確たる信念があった。「何期やってもやり残したことは出る」と、惜しまれながら2期ですっと市長職を退いたのもこの人らしい。 仕事には厳しかったが決して堅物ではない。自宅に伺うと、数々の失敗談で笑わせてくれた。 選挙違反を疑われて警察車両に尾行され、鹿児島県まで車で走ったこと。広報誌の記事では筆禍事件を起こし、地区の全女性を敵に回す事態に。買い物に出た駐車場で、間違えて他人の車の鍵穴をガチャガチャやって泥棒扱い…。 おっちょこちょいなエピソードも、大いなる魅力であった。 市長引退後、腹部の手術を受けた。その節も、心配ご無用とばかり得意のジョークで復調をアピールしていた。「腹ん中はきれいやった。腹黒うはなかったもんな」 人なつっこい笑顔ばかりが思い浮かぶ。 ◆吉井正澄(よしい・まさずみ)さんは5月31日に92歳で死去。