日本古代史の謎と「空白の4世紀」に挑む! 古墳、大和王権、聖徳太子……etc. 歴史学びと楽しさのススメ
連載100回目を機に古代歴史についての考察を振り返りつつ、どのように歴史の世界を楽しむのか? についてお話ししておきます。私の場合は最新の研究による状況証拠や物的証拠も取り入れ、古代人と現代人に共通する基本感情の機微を大切にして考察推理し、合理性を以って「人間的に理解する」というのが基本です。皆さんに問題を提起しますので一緒に考えてみませんか? ■定型化された前方後円墳の普及と大和王権の広がりに対する素朴な疑問 大和王権が急速に広がる「空白の4世紀」と呼ばれる約150年間にどんなことがあったのかを理解するには、前方後円墳の広がりと、きめ細かい調査報告をヒントにして推理するのが有効でしょう。 古墳の築造年代や編年を知るのは出土数の多い円筒埴輪が便利ですし、もちろん副葬品の研究と各地の伝承を参考にしますが、墓誌や金石文(きんせきぶん)などが出土すれば大きなヒントになります。 弥生時代の墓は地方や時代によって様々な特徴を見せるものですが、ほぼ全国に広がる前方後円墳という特殊な墳形は定型化されているという不思議な状況を示します。約400年に及ぶ前方後円墳築造の期間、基本の形は変わりません。同時に築造される陪冢(ばいちょう)は、円墳・方墳・小型の前方後円墳などと墳形も大きさもバラエティに富むので、主墳と陪冢の関係からは、被葬者の地位や政治体制、埋葬習慣、さらには当時の階級制度や精神世界までが見えてきます。 前方後円墳型に込められた死生観や思想もまだ解明されていませんので、そこはさまざまな推理や想像を逞しくして研究するべきなのでしょう。 わが国創造の礎となった3世紀後半から5世紀はじめの150年間を謎のままにせず、真摯な研究をするためにも宮内庁の姿勢を改めてもらう必要がありますが、皆さんも自由に推理をしてください。 ■聖徳太子の十七条憲法・冠位十二階と遣隋使の関係 『日本書紀』にも『古事記』にも一切の記述が無い第1回遣隋使の記録が『隋書』に残されています。それは西暦600年のことで、倭国の使者が大国「隋」と国交を結ぶために海を越えて訪れています。しかし当時の最先進国である隋は、倭国が官僚制度も法律も無い旧態依然とした未開の地であると断定し追い返すのです。 年表を見ると、587年に蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を発願しています。また四天王寺は593年の創建と伝わっています。先進国の証である大寺院を建立し得たことで、大和は勇んで遣隋使を派遣しますが、国家の根本を整備できていなかったために、600年の国交樹立に大失敗を喫するのです。 年表に戻ると、603年に「冠位十二階」、その翌年に「十七条憲法」が定められ、607年に小野妹子を正使とした遣隋使を派遣しています。『隋書』に従えば2度目の遣隋使となります。607年には法隆寺も完工していたとされていますので、本格的大寺院が次々に創建されているわけです。 隋に追い返されて大失敗した国交樹立をリベンジしようとした聖徳太子は、着工していた大寺院の充実や完成を急がせて、十二段階の官僚制度を創り、法治国家の体裁を整えるために仏教思想を深く織り込んだ十七条の規定法を創ったのでしょう。 隋国答礼使の裴世清(はいせいせい)が飛鳥の都に到着するルートを見てみましょう。長い旅を続けてきた船が入港する大阪湾に到着するころ裴世清たちの目に映ったのは、上町台地という小高い丘の上に、南北に長く大伽藍と五重塔の甍を輝かせた四天王寺だったでしょう。 古墳時代には巨大な大王墓を海岸付近に築造してその権威を見せつけていましたが、この時代には大寺院がその役割を担います。裴世清一行は野蛮な国に世界の秩序を教育しようとしてやって来たにもかかわらず、その雄大さと文化の高さに驚いたことでしょう。 難波津(なにわづ)に上陸すると、迎賓館で大歓迎の儀式と宴が何日も続きます。そして大和川を遡って法隆寺を左手に見ます。その後、上陸して山田寺方面の高台を60頭もの飾り馬に揺られて、広大な方形の法興寺を見下ろします。ますます倭国の文化の高さを実感したでしょう。大歓迎の式典の後、引っ越ししたばかりの推古天皇の新築宮殿である小懇田宮(おはりだのみや)に案内されたようです。 私には「これでもか!」というほど隋国の正使一行に倭国の文化度の高さを見せつける演出力のすごさを感じます。そして世界情勢の後押しもあり、隋と対等の国交を開くことに成功したのだと思います。 蘇我氏の皇子である聖徳太子らの推古政権は、馬子ルートの豊富な海外情報を手にしていたことが分かりますし、その抜かりの無い万全の準備を感じます。 聖徳太子という人はどんな人だったのでしょう?また、当時の仏教文化とはどれほど文化の高さを示すものだったのでしょうか? ■白村江の大敗と藤原鎌足の正体 蘇我氏本宗家を瞬時に滅ぼして政権を奪取した中大兄皇子と中臣鎌子(藤原鎌足)は、「大化の改新」を実行したといわれていますが、それほど本気で改革していたのかというと、私にはその気配はあまり感じられません。むしろ当時の最先端の文化を内包した仏教を積極的に取り入れ、朝鮮三国を飛び越えて隋国と直接国交を開いた蘇我政権の方が近代化の熱意を強く感じさせます。 つまり中大兄皇子(天智天皇)を旗頭にした藤原鎌足主導のグループが政権を奪取した目的が、滅亡に瀕した百済の救援だったとしか私には思えないのです。 まるで百済の復興に大和軍を動員することに最大の目的があったのではないかとさえ思えます。そして白村江まで出撃した大和軍は全滅しますが、鎌足は都を近江に遷して最高位の大織冠(たいしょくかん)をかぶり、藤原の姓を受けて死んでいきます。 鎌子・鎌足というのは本名でしょうか?もしかすると彼には百済の名があったのではなかったでしょうか? 蘇我本宗家を瞬時に滅ぼした板蓋宮(いたぶきのみや)と甘樫丘(あまかしのおか)を舞台にした乙巳の変(いっしのへん)が実行される頃、蘇我氏先代の大臣馬子が大勢の百済遺民を明日香に受け入れて住まわせていましたので、その集団は相当な人数と勢力になっていたと思われます。その中でも特に過激派の一団が、血筋に申し分のない中大兄皇子を旗頭にクーデターを断行したのではなかったかと、私は考えています。そう考えると、近江朝廷の実態や壬申の乱の真の動機も理解できると私は思っています。 定説といわれている歴史のストーリーはどんどん覆されています。これからはますます真摯な調査研究と大胆な推理が必要とされるでしょう。歴史ファンは自由に大胆に想像豊かに謎解きにチャレンジして楽しみましょう!
柏木 宏之