いつの間にかタイで僧侶になっていた「直木賞作家」とは? 仕事も家庭も行き詰って出家した“老僧”の日本旅行記(レビュー)
「笹倉明」という名を聞いてミステリー作家だと思いだす人はよほどの小説好きだろう。 1988年、賞金1200万円の文学賞、「サントリーミステリー大賞」を『漂流裁判』で受賞し、89年には『遠い国からの殺人者』で第101回直木賞の栄冠に輝いた押しも押されもせぬ人気を誇った作家だ。 だがいつの間にか「タイに行って僧侶になった」と風の噂で聞いた。一体何があったのだろう、という疑念は本書を読んで解消した。 要は日本で仕事に行き詰まり、家族間の争いに疲れ、経済的に困窮して、暮らしやすいと言われるタイに逃れていたのだ。 その後チェンマイの古寺にて67歳で出家。本書はその1年余り後の2017年春と18年秋の2回、副住職で息子ほども年若いアーチャーン(教授)と二人で日本を旅した記録だ。ちなみに著者は年長者というだけで「老僧(トゥルン)」と呼ばれるが、実際はまだ駆け出しの僧侶である。 著者が所属する仏教はテーラワーダ(上座部)仏教。古代インドで釈尊(ブッダ)が説いた原始仏教である。日本の仏教とは違い、著者の説明で知ることは多い。 タイに旅行に行くと頻繁に見かける黄色の仏衣の姿で来日し、国内を訪ね歩く姿はかなり目立つだろうし、さぞ寒かっただろう。 自国であり他国でもある日本は二人に寛容だった。街は安全で、各地の寺は同じ仏弟子として最優先に彼らを歓迎してくれた。 著者はともかく同行のアーチャーンは日本の仏教との違いに戸惑いつつ、時間とともに上手く受け流していくのは若さのせいか、僧としては最速の出世を遂げた優秀さからか。 とはいえ奈良の大仏前でタイの僧侶が、教えのままに五体投地する姿はなかなか見られるものでない。 信仰とはどのようなものか。何かを信じ抜く姿とおおらかさには、少し縋りたいという誘惑にかられる。 [レビュアー]東えりか(書評家・HONZ副代表) 千葉県生まれ。書評家。「小説すばる」「週刊新潮」「ミステリマガジン」「読売新聞」ほか各メディアで書評を担当。また、小説以外の優れた書籍を紹介するウェブサイト「HONZ」の副代表を務めている。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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