富士山と宗教(8)遥か彼方から拝む神の山 石列が伝える信仰の源
配石遺構が物語る古代富士山信仰とは
富士山本宮浅間大社に伝わる「富士本宮浅間社記」によれば、孝霊天皇の時代に富士山が噴火し、国中が荒れ果てたため、垂仁天皇の時代に山足の地で富士山を祀って鎮め、さらに景行天皇の時代に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が山足の地から山宮の地に社を遷した。それが現在の山宮浅間神社であるという。 さらに平城天皇の大同元年(806年)に坂上田村麻呂が山宮から富知神社という神社のあった地に社を遷して壮大な社殿を営んだとされ、それが現在の富士山本宮浅間大社になった。だから、富士山本宮浅間大社のある場所に、かつては富知神社があったことになる。その富知神社は、今は富士宮市朝日町にある。 社記が伝える歴史の真相は不明だが、いにしえより富士山が遥拝されてきたことは、今日まで残る遥拝所や遺跡の存在が物語っている。富士山への畏れが富士山信仰の根源なのだ。 山宮浅間神社から西南に8キロほど離れた富士宮市大鹿窪の耕作地で、約1万3000年前の縄文時代草創期の集落跡が発見されたのは平成14(2002)年3月のことだった。 10軒以上の住居跡に加え、石を並べた配石遺構や石を集めた集石遺構が確認され、これら石の遺構を囲むように住居が建てられていた。また、山宮浅間神社から北西約6キロの地点にある縄文時代中期の集落跡である千居遺跡においても大規模な配石遺構が確認されている。これら配石遺構は祭祀のために造られたと考えられており、富士山信仰との関わりが指摘されている。 千居遺跡や大鹿窪遺跡の配石遺構について静岡県富士山世界遺産センター研究員で環境考古学を専門とする内山純蔵博士は、縄文時代において富士山が2つ頂(いただき)のある山だったことを踏まえ、「富士山の2つの峰の間から夏至を中心とする夏の日の出を望む最適地を選んで造られたのではないか」とし、配石遺構と富士山、太陽、そして夏至との関わりを指摘している。 富士山は、江戸時代、宝永4(1707)年に大規模な噴火をして以降、大きな噴火を起こしていない。しかし、歴史的に見れば繰り返し噴火をしてきた山だ。自然への畏敬はいずれの原始宗教にも見られることだが、富士山信仰の根源にも富士山を畏れ、崇める祈りがあることは明らかだ。それは今や30万人もの人々が富士登山を行う現代社会に対する古代社会からのメッセージのようでもある。