富士山と宗教(8)遥か彼方から拝む神の山 石列が伝える信仰の源
富士講による富士登拝の盛り上がりは、富士登山が大衆化する契機になった。富士登拝が流行する以前、富士山に登る者は修行者など一部の者に限られていた。そして、さらにその昔、富士山は遥か彼方から拝む神の山だった。
参道の先にある遥拝所
静岡県富士宮市の県道180号線は、富士宮市街地を抜けると樹木が鬱蒼と茂る山間を走る富士山スカイラインとなる。その道路は登山道の「起点」となる富士宮口五合目へと至る。道路が富士山スカイラインとなる前、富士宮市街地からさほど遠くない県道180号線の道路脇に山宮浅間神社の鳥居は立っている。 鳥居をくぐり樹木に囲まれた参道をしばらく歩くと賽銭箱を置いた建物があった。籠屋(こもりや)と呼ばれるその建物は昭和8年(1933)に建てられた比較的新しい建物で、社務所としての役割を有しているようだ。昭和8年以前の籠屋の実態は不明だという。 籠屋を越えて参道はさらに続いている。奥へ進むと参道の真ん中に、行く手を遮るかのように大きな石が距離をあけて2つ置かれている。鉾立石(ほこたていし)と呼ばれるその石は、明治初期まで行われていた祭事「山宮御神幸」で、神の宿った鉾を立てるために使われていたものだ。富士山の火山弾の石だという。 鉾立石を過ぎると急な階段となり、階段を上り切ると、周囲を玉垣で囲まれた南北15.2メートル、東西7.6メートルの長方形の空間が広がっていた。頂上に雪をいただいた富士山が真正面に見える。ここは富士山を遥拝(ようはい)する神聖な場所。玉垣の中には列になった石があり、それらは祭壇や祭祀の際の神官らの配置を示しているのだという。
本殿を建てると吹き倒されてしまう?
山宮浅間神社には本殿がない。昔、「本殿がないのはおかしい」と考えた村人が本殿を建てたところ、大風が吹いて吹き倒されてしまった、との言い伝えが今も地元に残る。 遥拝所から拝む富士山が山宮浅間神社の「本殿」なのだろうか? 富士宮市街地にある富士山本宮浅間大社の禰宜(ねぎ)小西英麿氏は「山宮浅間神社は、もとは山足の地にあったと言われています。それが山宮に遷り、さらに山宮からここに遷ったのです。山足の地はどこか? それは特定されていません」と話す。 境内に富士山の雪解け水が湧き出る湧玉池(わくたまいけ)がある富士山本宮浅間大社は、富士山信仰の中心になっている神社。年間110万人もの人が訪れている。ちなみに連載の第7回に記したように、明治時代において身禄派の富士講を救済し、神道扶桑教を立ち上げた宍野半が、富士山信仰と関わりを持つことになったのは、教部省の役人として富士山本宮浅間大社(当時は富士浅間神社)に任官され宮司を務めたからだった。