遠藤周作さんの直筆原稿見つかる 長崎在住の元担当編集者が保管 80年代の人気エッセー
長崎ゆかりの作家、遠藤周作さん(1923~96年)が80年代、講談社の月刊誌「ペントハウス」に連載したエッセーの直筆原稿12回分が見つかった。同誌の編集者として担当していた長崎文献社編集長、堀憲昭さん(82)=長崎市在住=が保管していた。素顔の遠藤さんについて「(私が)異動した先の雑誌にも連載を持ちかけてくれる優しさのある方、思いやりが深い方だった」と明かす。 連載は「周作塾」というタイトルで、1984年から87年まで44回掲載された。各回、見開き2ページ。「読んでもタメにならないシリーズ」と銘打って、楽しい人生を送るための機知に富んだヒントを満載し、時代の風俗や思考方法などについて分析しユニークなメッセージをつづった。 「私はこの頁に六十年にわたる私の人生智、処世智の多少を語ろうとしているのだ」(第2回)。連載は好評で単行本化されている。 堀さんは同連載を手がけるまで遠藤さんと面識がなかったが、初対面でエッセーを執筆してほしいと提案すると、遠藤さんは「おー、いいよ」と即答したという。そこから生涯の付き合いが始まった。 連載で遠藤さんは、女性と競馬場に一緒に出かけて交際するかを見極めるなど、意表を突く若者の生き方を提案したりしている。堀さんは、遠藤さんの物まねをしていた俳優竹中直人さんを起用して、遠藤さんにそっくりな写真を連載に大きく使ったりした。「面白いことを考えるな、君たちは」と遠藤さんが笑い飛ばしていたという編集時のひとこまを明かした。 見つかった直筆原稿は連載の2~13回分で、各回9枚。編集側の校正前の原稿で、遠藤さん専用の400字詰め原稿用紙に鉛筆で書かれ、推敲(すいこう)の跡が残る。堀さんがファイルに入れて保管していた。初回の原稿は遠藤さんに返却したという。 堀さんはその後、違う雑誌の担当に異動し、周作塾の編集に携わったのは最初の1年だけだった。しかし、その後も異動するたびに遠藤さんにあいさつに出向くと「そうか、そっちでも何かやるか」と連載を引き受けてくれたという。「サービス精神に感動した」と思い出を語る。 遠藤さんの人柄については「目の奥は真面目な人。でも、真面目に見られたくないフランクな人だった」「いたずら好きで、いつも周りは笑いが絶えなかった」と振り返る。締め切りを守る律義さも兼ね備えていたという。 堀さんは講談社に36年間勤務して定年となり、2003年に長崎市に帰郷して長崎文献社で長崎の歴史や文化に関する本の出版・編集に従事している。現在、闘病中で「余命いくばくもない」と打ち明ける。断捨離のつもりで資料を整理する際に原稿を見つけた。