「頭痛が痛い」「違和感を感じる」「歌を歌う」…重言のセーフとアウトの境界線は?【言語学者が解説】
こんなふうに、モノなのか出来事(行為)なのかで解釈が変わる名詞は少なくない。 たとえば「食事」も、食べる行為を表すこともあれば、食べ物を表すこともある。前者のように解釈すれば「食事を食べる」は不自然になるが、後者だとある程度は許容できそうだ。実際、会食(=食べる行為)の意味で「取引先との食事を食べた」と言うのはかなり不自然だが、「食卓に用意された食事(=食べるモノ)を食べた」だと、けっこう自然になる(ただし個人の感覚です)。 「違和感を感じる」に違和感を感じる人と感じない人の違いも、これで説明できるのではないか。 つまり「違和感」を「何かを感じるという出来事」として捉えている人は、「違和感(=感じるという出来事)を感じる(=感じるという出来事)」となるので、結果として冗長だと感じる。他方、私のようなタイプは、「違和感」をモノ、つまり感じる対象として捉えており、「違和感(=感じるモノ)を感じる(=感じるという出来事)」と解釈しているために、冗長さを感じないのではないか。 と、ここまで書いたところで、自分が「嫌悪感を感じる」という表現をかなり不自然だと思うことに気がついた。自分だったら「嫌悪を感じる」と言うような気がするし、「嫌悪感」と言った時点で「嫌悪を感じること」がすでに入っているような気がする。 「違和感を感じる」がアウトな人の感覚も、これと同じなのかもしれない。
● 「頭痛が痛い」「馬から落馬する」も 場合によっては不自然さが軽減 ダメな重言の例としてよく引き合いに出されるのが、「頭痛が痛い」と「馬から落馬する」だ。しかしこれらも場合によっては不自然さが軽減する。たとえば、「長年悩まされてきた持病の頭痛が今朝はひどく痛い」とか「暴れ馬から落馬した」とか言えば、私の感覚ではかなり自然になるように思う。つまり情報量が増えれば、意味の重複があまり気にならなくなるようだ。 また、私の感覚では、シンプルに「頭痛が痛い」と言うのは変だと思うし、同様に「胃痛が痛い」もかなり変だ。しかし「偏頭痛が痛い」とか「腰痛が痛い」、「筋肉痛が痛い」、「神経痛が痛い」あたりになると「別によくね?」となる。 さっきの理屈で言えば、「頭痛」「胃痛」は「頭(あるいは胃)が痛いという出来事」に取りやすく、「偏頭痛」「腰痛」「筋肉痛」「神経痛」の方はよりモノに近いのかもしれない。 あと、「馬から落馬する」タイプの言葉がすべて不自然だとは限らない。個人的には、「会社に入社する」「車に乗車する」「山から下山する」「部屋に入室する」などは、けっこう普通に言う気がする。 さらに、情報量を増やして「第一志望の会社に入社した」とか「迎えに来た車に乗車した」、「富士山から下山した」、「面接室に入室した」などと言えば、私はほとんど不自然さを感じない。