<偉人の愛した一室>古事記を解読した本居宣長 医者でもあった国学大家の生涯が詰まった空間「鈴屋」
大河ドラマ「光る君へ」がヒットしている。『源氏物語』を若い人が知るよい機会ともなっているが、世界に比類なきこの古典文学を研究し、その価値を世に広めた「知の巨人」についても多くの人に知ってもらえたらと思う。 【画像】<偉人の愛した一室>古事記を解読した本居宣長 医者でもあった国学大家の生涯が詰まった空間「鈴屋」 本居宣長は江戸中期、伊勢の松坂で生まれた。医者として生涯を送る傍ら、古典における日本語の探求に没頭、研究成果を多数の書籍として刊行した「国学」の大家である。 国学は『日本書紀』や『古事記』といった歴史書のほか、『万葉集』や『源氏物語』まで、幅広く古典を学ぶことで日本の文化を知り、日本人について知ろうとする学問である。中でも、宣長は読むことすら難しくなっていた『古事記』に着目し、国学におけるその重要性を世に問うた。35年をかけ、注釈書『古事記伝』44巻を完成させたのは1798(寛政10)年、69歳の折であった。 その一方、宣長が最も愛したのは『源氏物語』だった。 宣長は「源氏」の本質は〝もののあわれを知る〟ことに尽きると説いた。浅学を顧みずに言えば、日本人がものごとに接して起こす繊細な心の動き、いわば日本人の感性のあり様を〝もののあわれ〟という言葉でとらえ、それが「源氏」の根底に流れていると指摘した。仏教や儒教が入り込む前の、古えの日本人の心を知ろうとする宣長の姿勢は広く人々から受け入れられ、評判を聞きつけて聴講に訪れる大名すらあった。 「源氏」の素晴らしさは作中で詠まれる和歌にある。幼少期から和歌を愛し、生涯に1万数千首を遺した宣長ならでは、この研究はなしえ得なかっただろう。江戸時代、不道徳な書として忌避されていた『源氏物語』は宣長の愛情により甦った。 では、本居宣長とはどんな人物だったのか。幸い、我々には「本居宣長記念館」がある。そこでは偉人の生涯を伝える資料が誠実に保管管理され、偉人が愛した自宅が移築されて、当時のままで守られている。 松坂は商人の街である。16歳で江戸に出て、叔父の木綿問屋で修業を始めた宣長は、わずか1年で松坂に戻される。学問に心が向き、商売の修業に身が入らなかったからだ。 余談になるが、地誌への関心が高かった宣長は、流通していた地図に多くの誤りがあることに憤りを覚える。帰郷後、独自に作製した「大日本天下四海画図」は、列島の姿をかなり正しくとらえ、城下や宿場など、書き込まれた情報は詳細かつ正確だった。「伊能図」に先立つ半世紀前、なぜこれほどの地図が作れたのか、いまも謎であるという。 当時、江戸では伊勢商人が幅を利かせていた。その多くが松坂を本拠とし、江戸の店は使用人に任せ、主人は松坂で指示と集金だけしていた。そんな街での商人失格の烙印、宣長は失意の底にあったが、学問への思いが失われることはなかった。 23歳の折、医者になるために京に修業に出た宣長は、学問の中心地で優れた学者や多数の書籍に囲まれ、さらに深く啓発されていった。28歳で故郷に戻って開業、生活の基盤を固めると、大好きな学問への道をまっしぐらに進んでゆくのだ。