Kitri、時代を超えた初のカバーコンサート 豊かなメロディで内省を届けるポップソングへの共鳴
「深夜高速」「僕のこと」で示した“Kitriが歌う理由”
そこから終盤に続く流れは本当に素晴らしかった。「二人セゾン」(欅坂46)、「水色」(UA)、「あじさい通り」(スピッツ)は、季節が巡る中で心に小さな光が差し込む瞬間を描いた楽曲たちであり、続く「嵐の素顔」(工藤静香)は泣きたいほどの失恋の情を嵐に見立てて、〈すべてを壊す〉ことで素顔を露わにしていく楽曲。時には自分の殻に閉じこもったり、かけがえのない大切なものに気づいたり、本音を吐き出したりするなど、細やかながらも見過ごせない感情を歌にしているのはKitriのオリジナル曲と同じだ。息継ぎさえ難関なメロディを歌い上げた「二人セゾン」、ジブリ映画の主題歌のように繊細な情景を描き出し、シンセが水面のように揺らめいた「水色」、霧が晴れて木漏れ日が差すように静謐なピアノが響いた「あじさい通り」、心が掻き乱される様を表現した旋律に引き込まれる「嵐の素顔」……と、それぞれの楽曲で見せる表情も実に色鮮やかである。 そして、今回のライブで最も大切なクライマックスとなったのが、「深夜高速」(フラワーカンパニーズ)から「僕のこと」(Mrs. GREEN APPLE)への流れ。それはまるで〈生きててよかった そんな夜を探してる〉(「深夜高速」)と嘆く人生の路頭に迷った人間が、〈なんて素敵な日だ/幸せに悩める今日も/ボロボロになれている今日も〉(「僕のこと」)と、今この瞬間を肯定するまでのドキュメンタリーのようだ。さらに〈涙なんかじゃ終わらない 忘れられない出来事/ひとつ残らず持ってけ どこまでも持ってけよ〉(「深夜高速」)と〈努力も孤独も/報われないことがある/だけどね/それでもね/今日まで歩いてきた/日々を人は呼ぶ/それがね、軌跡だと〉(「僕のこと」)といった歌詞を聴くと、この2曲は本質的に同じことを歌っていたのだと気づく。自分の見てきた景色や歩んできた道のりが人生の色合いを決めるし、それは誇るべきオリジナルなものだということ。周囲と比べると自分の価値のなさに絶望するけど、それでも……と聴き手の心を奮い立たせてきたのがポップソングであるならば、Kitriもそんな歌詞に共振しているのだろう。以前、Monaは「どうフラットに自分を保とうみたいな葛藤がある」「音楽の中で自分を表現することが生きる道に繋がっている」と語ってくれたことがあったが(※1)、「深夜高速」と「僕のこと」のカバーを聴けば、Kitriがなぜピアノインストではなく、言葉で内面を表現する音楽に挑戦しているのかがよくわかるはずだ。 本編は、谷川俊太郎の言葉を坂本龍一のメロディが彩る「TAKESHIの、たかをくくろうか」(ビートたけし)という、これまた意外な選曲で締め括られた。シニカルな観察眼の先に希望に似たエッセンスが入っている点では、Kitriのオリジナル曲にも通ずると言えるだろう。アンコールでは、静やかでノスタルジックなアレンジが、燃えるような情熱を際立たせた「アン・ドゥ・トロワ」(キャンディーズ)を経て、ラストは童謡「この道」をカバー。故郷への帰路につくように、初のカバーコンサートは穏やかに終幕した。 中盤のMCで、「Kitriのカバー曲にはなぜか雨の曲が多い」とMonaが語っていたが、確かにその通りだと思った。それは、少年少女の移ろいゆく内面性、正解・不正解のないグレーな出来事、誰かと繋がりたいと願う孤独な心情……など、Kitri自身が曇った心模様に寄り添う音楽を鳴らしてきたからではないだろうか。年代という観点で見れば楽曲の幅は広いが、こうしてコンサートで聴いてみると、内省や苦悩を掬い取り、それを叙情的なメロディに乗せて昇華した楽曲が多いことが改めてよくわかった。全曲カバーという斬新な試みを通して、自身と通じ合う曲を歌ってみることで、2人も“歌う理由”を見つめ直せたのではないだろうか。Kitriのポップソングの核心と新たな可能性が詰まった特別なコンサートを目撃できたことを嬉しく思う。 ※1:https://realsound.jp/2021/04/post-744414.html
信太卓実