『下山メシ』は深夜帯グルメドラマの次なる一手に 『それぞれの孤独のグルメ』が示す現状
飯テロの最新形『下山メシ』がはらむ矛盾
自己完結とドラマ性の不在をてこにして、映えと感覚に自らを投入する。食べるという行為を純粋に主観的な体験として再構築することで、飯テロドラマは成立している。その点で『下山メシ』は深夜帯グルメドラマの最新形と言えるだろう。同時に大きな矛盾もはらんでいる。その矛盾は、山登りが自己完結型のアクティビティであることで生じる。 「なぜ山に登るのか?」という問いに対する答えが「そこに山があるから」であるように、行為と目的が一体化しているのが登山である。そこにドラマは存在しない。積極的に意味を見出したり、あえて文脈を読み込まなくても、絶景や登山者の内面に生起する感情がありのままの感動を運んでくるからだ。脳の快楽中枢をダイレクトに刺激するので、中途半端なフィクションは用をなさないのだ。同じことが山での“食”についても言える。山登りにおいて、食べることは生存に直結する。厳しい環境で身体を極限状況に追い込んでする食事は、純粋な栄養補給とカロリー摂取に近似する。そこに理屈はいらない。 ドラマ的な観点からは、行為者と観察者の主観的なギャップが大きいのが登山であり、周囲の文脈から切り離されて自己完結しているため、観ている側が感情移入しにくい難点がある。こうしたドラマ性の不在を補うことに制作側は腐心しているようで、『下山メシ』では、各話の山にまつわるシーンに個性的なキャラクターやイベントを設置している。近時見られるような飯テロドラマの通常ドラマ化がここでも起きているのだ。 孤独のうちに一人味わう単純な図式は賞味期限が過ぎつつある。そんな中で、食がもたらすエクストリームな快楽を追求しつつ、飯テロドラマの現状を乗り越えようと『下山メシ』は果敢に挑んでいる。そこに高みを目指す意志を見て取ったのは筆者だけではないはずだ。
石河コウヘイ