「幸福が一瞬にして消え去る“あの空気”を伝えることは私の使命」黒柳徹子さんにインタビュー
黒柳徹子さんが小学生時代を過ごした「トモエ学園」でのできごとを一冊にした『窓ぎわのトットちゃん』は、国内外で2500万部以上が発刊され、ギネス世界記録にも認定されました。そして昨年には、『続 窓ぎわのトットちゃん』が42年ぶりに刊行。続編では、戦時中に母と子どもたちだけで青森へ疎開してたくましく生きていく様子が描かれ、今まさに子育て中のママ・パパにとっては胸にグッとくる内容に。そこで今回は、子どもたちや子育て中の方に向けて、今こそ、黒柳さんが伝えたい思いを聞きました。 黒柳徹子「90歳になったら勉強して、政治記者になりたかった(笑)」
疎開先でも好奇心旺盛で行動力があった母と、自分が重なる部分も
――『続 窓ぎわのトットちゃん』が昨年出版され、続編も多くの方々に読まれていると思います。今の黒柳さんのお気持ちを教えてください。 黒柳さん:とってもうれしいです。この続編では、戦時中の疎開先でのことを中心に書こうと思っていました。疎開先では、東京の暮らしの中では知ることのできなかった母のたくましさが、とても頼もしく感じられましたね。 実際、「お母さまのバイタリティがすごい!」なんていう、30~50代の女性からの感想も多くて。母もエッセイストで、当時のことはいろいろ書き残しているのですが、じつは、私は読んでいません(笑)。令和の時代になっても、私だけでなく、母にも興味を持っていただけることを、心からうれしく思っています。 ――お母さまはどんな方だったでしょうか? 本を読んでいると、戦前のお母さまの印象と、戦時中の印象が大きく変わっていることが印象的でした。 黒柳さん:父が有名なバイオリニストだったものですから、戦前はよく父と一緒に演奏会に出かけていました。母はとてもおしゃれで、そしてきれいな人だったので、子どもながらにいつも、「素敵だな」と思っていました。 しかし戦争がはじまると、生活は少しずつ変わっていきました。父は戦争に行ってしまったので、母と子どもたちだけで疎開先を探しに出かけることになったんです。その頃から、母はたくましくなっていったように見えました。 東京の家を離れるとき、母はずっと大切にしてきた、応接間のソファにかかったゴブラン織りの布をハサミでジョキジョキと切って大きな風呂敷にし、家族の思い出の品などを詰めていきました。そして私たちは、青森の知り合いを頼るために東京の家を出発。そのとき、妹はまだ一歳にならないぐらい、弟も三歳、そして私は小学生でした。 上野駅で電車に乗る間際、人で溢れたホームで私は母たちと離れ離れになってしまったんです。大変な旅のはじまりでしたが(『続 窓ぎわのトットちゃん』に詳しく書いていますので、ぜひ読んでください)、青森のとある駅でなんとか母たちと再会することができました。 そんな大変な道中でも、母は途中で立ち寄りたいところがあると言って、そこからバスに2時間ほど揺られて「キリストのお墓」を見に行ったんですね。母にはそういう好奇心旺盛なところがあって。そのとき30歳ちょっとでしたから、母も若かったんだなと思います。 その後、エッセイストになった母は、イギリスやアメリカに講演に行く機会が多くありました。おそらく、戦争のときの話をしていたんだと思いますが、私が「ママ、講演で話をするときは、メモか何か持っていかないの?」と聞いたんです。すると母は、「そんなもの持っていかないわよ」、なんて言うんですよ。とても度胸のある母で、その性格は私にも受け継がれているかもしれません。