逮捕された途端に劇場の態度が急変…伝説のストリッパーが「自分は利用されていた」と気づくまで
1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。 『踊る菩薩』連載第50回 『歌舞伎の起源は「ストリップ」…⁉伝説の踊り子を崇拝した俳優が語る、「権力」と「わいせつ芸」の意外な関係』より続く
裁判の行く末
日露戦争中の1905年、大阪・西成の天下茶屋には捕虜収容所が置かれていた。戦争が終わると、跡地は清新な住宅地に生まれ変わり、碁盤の目のように整備された道路には梅、松、橘、桜、柳といった樹木の名が付けられた。 一条が引退公演(72年5月)の直前、吉田と開いた寿司店「一条」は松通りを国道から500メートルほど入ったところにあり、店には「寿司 季節料理 一条」の看板が上がっていた。 一審で実刑判決を受けた彼女は拘置所を出た夜、吉田と2人で将来について話し合い、涙している。それでも気を取り直し、翌日から店を開けた。しばらくは全国のファンから応援の電話が殺到した。 吉田と相談して控訴を決意したが、実刑を覆すのは容易でなさそうだ。行く末を思うと悲観的になる。メディアの取材でも不満を述べている。 「刑務所に行くとなると、もう立ち直れんやろな。あたしは誰にも迷惑かけてへん。男の人に裸を見せるのがあかんのやったら、他にも見せてる人がいるのに、なんであたしだけやられたんやろ」
誰も傷つけていないのに…
一条には、自分は誰も傷つけていないとの意識が強かった。人を喜ばせたのに、それを楽しんだ側ではなく、楽しませた側を罰するのは不公平だと思った。 「テレビに出た、映画に出たと言われても、もっとえげつない番組や映画もあるやないですか。裁判官はあたしが憎かったんやろな。世の中にはもっと悪い人がいっぱいいるでしょう。土地を高く売って、儲けたり、業者からカネもらったりする政治家とか。そんな人は平気な顔をして世間をわたっているのに、あたしみたいに自分の身体で男の人を喜ばして、それがあかんと言うんやから。なんか訳わからん」 大阪タクシー汚職(67年)や日通事件(68年)で業者と政治家との癒着が社会問題になっていた。一条はそうした状況を念頭に、なぜ自分が狙われねばならないのか理解できなかった。 吉田は当時、メディアの取材にこう語っている。 「劇場も冷たいもんですわ。あれほどチヤホヤ利用するだけしたのに、逮捕されてからいうもの、電話1本かけてこないんやからね」