『ブギウギ』視聴者は『醉いどれ天使』必見? 戦後描写の違いから見える作り手たちの願い
『東京ブギウギ』が大ヒットして、次の一手の「ジャングル・ブギー」が誕生した第20週。“ブギの女王”としての福来スズ子(趣里)にまばゆいライトが当たれば当たるほど、周囲の陰が際立ってくる。 【動画】「ジャングル・ブギー」フルバージョン 放送では未公開のカットも含む特別編集版 スズ子の前に現れた陰は、戦後を必死で生き抜こうとしている女性たち。ひとりはおミネ(田中麗奈)。ラクチョウ(有楽町)のおミネの異名を持ち、パンパンと呼ばれる街娼たちのリーダーをしている。戦争で夫を亡くすなどして、体を売るしか生きる術がない街娼は、世間的には問題視されていた。身売りされたわけではなく自らが娼婦を選んだ者たちというところが問題になっていたようだが、彼女たちをそこに追い込んだ社会の責任はどうなっているのかという疑問はさておく。 おミネは、スズ子が雑誌『真相婦人』でワケ知りに語る(雑誌記者が勝手に書いた)記事を読み腹を立てたのだが、スズ子も育児と仕事の両立に苦しみ、しかも、赤ん坊の父を失っているなどワケありであることを知り、矛を収めた。 もうひとりはタイ子(藤間爽子)。大阪時代、スズ子と仲良くしていた幼なじみである。芸者を生業にし、客に見受けされ東京に引っ越した。そのとき妊娠していたが、その子・達彦(蒼昴)は靴磨きの少年として、有楽町のガード下で、スズ子と偶然出会う。達彦に何かと目をかけていたスズ子は、彼の家までついていったとき、タイ子と再会。久しぶりに会った幼なじみが病で寝たきりになっていて、スズ子は衝撃を受ける。 幼い頃、かたときも離れず過ごしていたスズ子とタイ子が、いまではあまりにも境遇が違い過ぎて、タイ子は恥ずかしさのあまりスズ子を拒絶する。が、スズ子は、いまの自分がこうして歌を生業にできたのはタイ子のおかげだと、拒まれても拒まれても、差し出した手を離さず食らいついていく。 第1週でツヤ(水川あさみ)がスズ子に教えた義理と人情を重んじることの大切さと、スズ子はおせっかい過ぎるが、いつかそれが役に立つときも来るというタイ子の予言が長い時間をかけて熟成され昇華した。さらに、タイ子の助言で、スズ子は歌手になったが、新たな世界を拓く楽曲「ジャングル・ブギー」の誕生にもタイ子が関与したことになる。タイ子さまさまである。 朝ドラでは、ヒロインの親友キャラがよく出てきて、ヒロイン(光)対親友(陰)と対比させて描かれることが少なくないが、『ブギウギ』は親友キャラの出番がかなりのピンポイントであった。そのため、お互い東京に出てきて一度も連絡を取らなかったのかという疑問も残ったものの、現実の世界では、幼い頃に仲良くしていた子とまったく会うことがなくても、偶然再会したらすぐに昔に戻って、腹を割って話せるということはあるものだ。どんなに遠く離れていても、出会った以上は愛情を注ぐ、スズ子の義理堅さがむしろよく出たエピソードであろう。 「ジャングル・ブギー」の楽曲の歌詞は、とある映画監督が自作のために書き、羽鳥(草彅剛)に作曲を依頼したものの、羽鳥が多忙で保留にしてあった。が、スズ子から、戦後を生きるおミネたちの話を聞いた羽鳥は、この歌詞に曲をつけて「ジャングル・ブギー」を完成させる。 戦争で夫も、実母も亡くし、天涯孤独の身となり、息子が働かざるを得なくなったタイ子、自分の身を売って暮らすしかないおミネや街娼たち。誰もがそれぞれ事情があって、多少、他者に迷惑をかけても、生き抜くしかないのだ。彼女たちのように、戦後の焼け野原に根を張る雑草のようなたくましさを歌ったのが「ジャングル・ブギー」である。 コンサートで、スズ子は「ジャングル・ブギー」を初披露すると、おミネや街娼たちが立ち上がって夢中で一緒に踊る。生きるチカラを取り戻したタイ子も息子と共にスズ子たちの歌を楽しんだ。これまでのスズ子は、ステージでは、数多くのバックダンサーと共に歌っていたが、今回はミュージシャンとコーラス以外はひとりで、客席の街娼たちと共に踊ることで、スズ子の歌が民衆の声の代弁であることが表されたようだった。 趣里の歌と踊りはとても生真面目で、正確に楽譜と振りを再現しようとしているように見える。そこに「ワオワオ」とパッションで声をあげる草彅剛によって、ライブの弾む感じが加わった。 羽鳥の言う「とある監督」とは、スズ子のモデルである笠置シヅ子の史実では、巨匠・黒澤明監督で、映画は『醉いどれ天使』である。蚊の涌くようなひどく濁った、池のような大きな水たまりのある街で、酒浸りの町医者(志村喬)とヤクザの若者(三船敏郎)との交流を中心に、戦後を生き抜こうとがむしゃらな人々の姿を活写する。クラブで笠置が「ジャングル・ブギー」を歌い、人々が踊るシーンは、笠置の咆哮にも似た声が、人々の坩堝という大きな鍋を混ぜるようで、地獄の釜みたいだ。 生真面目でひたすら善なる町医者だがお酒ばかり飲んでいたり、悪事と暴力にまみれ社会悪のようなヤクザ者だが、そのぎらついたエネルギーは魅力的でもある。明らかな善と悪のような二項対立にしないで、濁った水たまりのなかで生きようとしている人々の苦しみと哀しみとそれでも生きるしかない姿を描いた『醉いどれ天使』のような混沌を『ブギウギ』は描けてはいない。いや、別に描こうとも思ってはいないのだろう。いまの時代を生きる人たちに向けた表現を模索した結果、スズ子をスター歌手としてキラキラさせるのではなく、いつまでたっても、ふつうの、むしろ不器用で生真面目な、たまたま歌手として祭り上げられてしまったかのような、でもとてもやさしい人物になったのだ。 (文=木俣冬)
木俣冬