泉鏡花の名作は“復讐”が目的だった? 尾崎紅葉に引き裂かれた神楽坂芸妓との恋、小説と正反対の結末とは
鏡花の態度そのものに憤激した説も
結婚について紅葉が記した一文がある。それには、「(妻たるべきものは)温かな両親の間にうまれて、温かな家庭の教育を受けた者でなくては宜(い)けない。斯(そ)ういう女は米の飯のようなものだ」と、およそ世俗的な文言が綴られている。 紅葉にしてみれば、芸者などは妻になるべき女性ではなく、愛弟子がそのような女性と一緒になること自体が我慢ならなかったのだろう。一説には、師の自分に一言も相談せずに同棲を始めた鏡花の態度そのものに憤激したという話もある。 あるいは、芸妓を落籍するなどまだ身分不相応、身の程知らずだと考えていたのか。「婦系図」の中で、鏡花は紅葉をモデルにしたと思われる人物に、こんな激しい啖呵を吐かせている。 「汝が家を野天にして、婦とさかつて居たいのだらう。それで身が立つなら立つて見ろ。口惜しくば、おい、恁(こ)うやって馴染の芸者を傍に置いて、弟子に剣突をくはせられる、己のやうな者に成って出直して来い」
「先生は鏡花君にとつて至上権威」
いずれにせよ、紅葉は鏡花を叱責し、鏡花は師の言葉に従った。 このときの様子を、紅葉の弟子の1人であった徳田秋声は、「先生は鏡花君にとつて至上権威なので、辛かつたと見えて泣いてゐた。私達も強ひては言へなかつた」と書き残している。 一方、別れを伝えられた桃太郎はどうだったのか。鏡花はのちに、芝居用に書いた「婦系図」のシーンで、その時の2人のやりとりを、こんなふうに再現している。 「切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時にいうものよ。私にゃ、死ねと言って下さい。(二者択一を迫られ)お前さん、女を棄てます、といったんだわね」 「堪忍してくれ。済まない。が、確かに誓った」 「よくおっしゃった、男ですわ。女房の私も嬉しい」 愛し合う2人の仲は師によって裂かれた。しかしこの悲恋には続きがある。
紅葉の存在が鏡花の文学を豊穣なものに
2人を叱責した紅葉は、当時胃がんを患い病床に臥していた。余命はいくばくもなかったことは鏡花も知るところだった。 半年後の明治36年10月、紅葉は弟子たちに見守られながら息を引き取る。享年35。 その師の死を待っていたかのように、鏡花は桃太郎を呼び寄せ一緒になった。正式に籍を入れたのは大正15年。夫婦仲のよさは有名で、互いの名前を彫り込んだ腕輪を肌身離さず持っていたともいう。結局、2人は最期まで幸福に暮らし、添い遂げた。 はたして鏡花は、死を迎えつつある師を思い、別れるふりをしたのであろうか。 鏡花は明治40年、この悲恋物語を『婦系図』として書き上げた。師紅葉への“復讐”として書かれたとされる作品だが、皮肉なことに実生活の悲哀を補って余りある名作となった。真相はどうであれ、師尾崎紅葉の存在が、弟子である鏡花の文学を豊穣なものにさせたのは事実である。
上條昌史(かみじょうまさし) ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。 デイリー新潮編集部
新潮社