泉鏡花の名作は“復讐”が目的だった? 尾崎紅葉に引き裂かれた神楽坂芸妓との恋、小説と正反対の結末とは
死別した母と同じ名前の女性
文学修業を経て、鏡花が『夜行巡査』『愛と婚姻』などで一躍新進作家として認められるようになったのは、紅葉の様々な後ろ盾があってこそだった。つまり鏡花にとって紅葉は、人生全てにおいての絶対的な師であったのである。 鏡花が神楽坂の芸妓、桃太郎と知り合ったのは、硯友社若手の新年会の席だった。 桃太郎の本名は伊藤すゞ。父親が早くに亡くなり、芸者に出た母親はある豪商の妾になった。しかし5歳のときにその商人が破産。彼女は芸妓屋に売られ、母親は行方不明。吉原仲之町で育ち、やがて神楽坂の芸妓屋で働くようになった。 彼女の人となりを伝えるものは少ないが、おとなしい顔立ちの、芯はあるが内向的な性格の女性だったようだ。ちなみに、すゞという名前は、偶然にも鏡花が数え年10歳の時に死別した生母と同じ名前である。
庭先の物干し竿にかけられた腰巻
鏡花はなぜか、桃太郎の存在を師の紅葉に隠し続けていた。紅葉が2人の仲を知ることになったきっかけは諸説あるが、弟子の一人は次のようなエピソードを残している。 明治35年の夏、鏡花は病気の療養をかねて逗子で避暑生活をしていた。桃太郎も何日か訪れ、身の回りの世話をしていた。そこへ紅葉が突然訪問する。 道をやって来る紅葉の姿を見つけた仲間の1人が大声を出し、皆で慌てて桃太郎を隠そうとする。桃太郎を裏口から近くの農家に逃がし、感づかれそうな品々を隠し回った。 紅葉が座敷に上がり、ふと庭先を見ると、物干し竿に腰巻がかかっている。「あれは誰だ?」と問う紅葉に、台所手伝いに来ていた知人女性の名を告げるが、「素人の女が紐のない腰巻をしめるはずがない。あれは商売女のものにちがいない」と激怒。紅葉はこのとき鏡花の陰にいる芸妓の存在にうすうす感づいていたという。
紅葉自身も神楽坂の芸者を囲っていた
やがて明治36年4月、鏡花が桃太郎を落籍し同棲している事実をつかんだ紅葉は、鏡花を呼びつけて激しく叱責する。その様子は、紅葉自身の日記にこう記されている。 「暱妓を家に入れしを知り、異見の為に趣く。彼秘して実を吐かず、怒り帰る。十時風葉(弟子の一人)又来る。右の件に付再人を遣し、鏡花兄弟を枕頭に招き折艦す。十二時放ち還す。疲労甚だしく怒麗の元気薄し」 なぜ紅葉は2人の仲を嫌ったのか。表向きは、愛弟子の文学的人生を危惧した親心から出た行為だったとされている。芸者にうつつを抜かし身を滅ぼして鏡花の文学が横道に逸れることを畏れたのである。 だが鏡花と桃太郎の恋愛は、単なる遊びではなく真摯なものだった。 もとより紅葉自身、神楽坂の芸者を囲っていた。小ゑんと呼ばれる芸者で、彼女は紅葉臨終の場へ同席するなど、半ば公に認められた存在でもあった。だが紅葉には、芸者を人間的に一段下に見る傾向があった。