普段何気なく取っているビジネス行動を、理論の視点から見直そう
──前々回の記事:現代の経営学で不可欠な「組織の経済学」(連載第26回) ──前回の記事:なぜ「アドバース・セレクション」を理解することがビジネスにおいて重要なのか(連載第27回) ■アドバース・セレクションを解消するための理論 メルカリや企業買収の例のように、現実の企業は様々な手法を使ってアドバース・セレクションを解消しようとしている。しかしそれは取引や業界の状況に応じた個別の戦術である。 それに対して、より本質的・普遍的に応用できるアドバース・セレクションを解消するための理論として、経済学では特に代表的な2つが提示されている。それは「スクリーニング」と「シグナリング」だ。 これから述べるように、私たちが普段何気なく取っているビジネス行動のなかには、実はスクリーニングやシグナリングの役割を果たしているものがいくつも潜んでいる。逆に言えば、皆さんがその「何気なく取っている行動」を理論の視点で見直すことが重要なのだ(図表4を参照)。 ■私的情報を持たないプレーヤーの対処法:スクリーニング まずスクリーニングから説明する。これは「私的情報を持っていない(すなわち相手が私的情報を持っている)プレーヤー」がとりうる対処法を理論化したものだ。 先の保険の例を考えてみよう。保険では、買い手は「自分が不注意かどうか」知っているが、保険会社はそれがわからない。結果として事故を起こしやすい人ばかりが保険を買う可能性があるのが問題だった。保険会社にこのアドバース・セレクションを解消する術はあるのだろうか。 実はスクリーニングの視点からは、極めて単純なことが解消法となる。それは ・保険料は安いが事故になった時の補償額も安い保険 ・保険料は高いが補償額も高い保険 2つの商品を用意するだけなのだ。 なぜなら2種類の保険商品があれば、「自分は事故を起こしやすい」(補償金を受け取る可能性が高い)と知っている加入希望者は、加入額が多少高くても補償額の大きい保険を自然に選ぶし、「事故を起こしにくい」と知っている加入希望者は、安い保険を自然に選ぶからだ。こうすれば保険会社は前者からは高い保険料を取りつつ、後者も逃さないで済む。 小売業やファーストフードで使われるクーポン券にも、同様の効果がある。この世にはハンバーガーを「少しでも安く食べたい」という客層と、「ハンバーガー程度なら価格は気にしない」客層が混在している。前者の例は、節約志向のファミリー層などで、後者の例は、会社帰りの懐に余裕のある独身ビジネスパーソンなどだろうか。したがってファーストフード店は客それぞれに違った価格を提示できればいいのだが、顧客それぞれの「ハンバーガーへの価格意識」は当人にしかわからない私的情報だから、それは不可能だ。 しかし、クーポンを使うとこの情報の非対称性はいっきに解消できる。なぜなら、価格に敏感なファミリー層は普段から新聞折り込みやアプリでのクーポン情報をマメにチェックしていて、それを持って食べに来るからだ。言うなれば、顧客が勝手に自分でクーポン払いという「値下げ」をしているのと同じだ。他方で仕事帰りの独身ビジネスパーソンは、クーポンなど気にせずにそのままの価格でハンバーガーを食べるだろう。これは、顧客の方が「高い価格」をみずから選んでいるようなものだ。 このように複数種類の商品を提示したり、クーポン券を提供したりするなど「顧客に選択肢を与える」ことで、顧客が勝手にみずからの私的情報に基づいた行動を取ってアドバース・セレクションが解消されるメカニズムを、スクリーニングと呼ぶ。先のノーベル賞受賞学者のなかでも、スティグリッツが保険の事例などを使って発展に貢献した理論である。 実は、スクリーニングは経済学で様々な事例での研究が進んでいるが、経営学ではその応用が十分に進んでいない。しかし、経営学の範疇であるビジネス取引にも、スクリーニング機能を持つ企業行動は潜んでいるはずで、これはフロンティアの研究課題といえるだろう。皆さんも応用例を考えてみてはいかがだろうか。