「清原正吾」の進路は独立リーグか“就活”か…「プロ入りを蹴って一流企業の役員に登りつめた慶應エース投手」の前例
的中した広澤氏の予想
デイリー新潮は10月1日、「ドラフト候補・慶大『清原正吾』の“守備”は『プロでも全く問題ない』 通算306本塁打のレジェンド打者が太鼓判 では“長打力”開花の条件は?」との記事を配信。ドラフト直前というタイミングで、広澤氏に「プロ球団は清原選手をどう評価するか」と質問した。 改めて広澤氏の経歴を振り返ると、大学時代は明治大学の主軸打者として活躍。特に1983年には2シーズン連続首位打者、4試合連続ホームランを達成するなど、六大学リーグ屈指のスラッガーとして名を馳せた。通算記録は69試合に出場し、打率3割5分1厘、47打点、ホームランは18本を放っている。 1984年、ドラフトでヤクルトが1位指名して入団。さらに巨人と阪神でプレーし、通算306本のホームランを放った。六大学野球の“先輩”である広澤氏は、“後輩”の清原選手を次のように評価していた。 《「『清原正吾』という野球選手を現時点の評価だけで見れば、率直なところプロ入りは非常に厳しいと言わざるを得ません。ドラフト会議で球団から全く指名されなくても不思議ではないでしょう。とは言え、清原選手は特殊な“経歴”の持ち主です。具体的には中学と高校の時に野球から離れました。これをどう考えるかによって、清原選手の評価は全く違ってくると思います」》
驚異的な伸びしろ
清原選手は慶應義塾幼稚舎に入学し、小学生の6年間は野球に打ち込んだ。名門チームの「オール麻布」で長距離バッターとして頭角を現していたが、この時は軟式であり、硬式を経験することはなかった。 そして中学生になると、清原選手は野球から離れる。慶應普通部ではバレー部、慶応義塾高ではアメリカンフットボール部に所属した。後に応じた複数のインタビュー取材で、野球を続けなかった理由として「小学6年生で両親が離婚」や「清原の息子という重圧」を挙げている。 《「清原選手は『アメフトと野球をやっていた』わけではありません。中学と高校の6年間、全く野球をやっていないのです。そんな大学生が野球部に入り、3年生でレギュラーの座を勝ち取るなど、長い東京六大学野球の歴史でも皆無でしょう。失礼かもしれませんが、東大野球部ならあり得るかもしれません。しかし他の5大学では無理なはずなのです。まして清原選手は4番を任され、ベストナインにも選ばれました。よく大谷選手の二刀流を『不可能を可能にした』と言いますが、実は清原選手も同じくらいの奇跡を起こしたのです」》 今の清原選手だけを判断すれば、ドラフト指名は育成枠でも厳しい。だが、大学4年間で見せた驚異的な成長と、今後も“伸びしろ”が期待できるとなると話は変わってくる。