アルフォンソ・キュアロンが描く深刻な人間ドラマ 『ディスクレーマー 夏の沈黙』の独自性
アルフォンソ・キュアロンはゆっくりと各物語の関係性を明らかにしていく
ルイス・パートリッジ演じる青年がイタリアの観光地を彷徨う姿や、レイラ・ジョージ演じる女性が浜辺にたたずむ姿の美しさは、ドラマシリーズの枠を優に超えていると感じられるし、ケヴィン・クライン演じる人物が、ショッピングセンターで販売員をからかい底維持の悪さを見せるシチュエーションは、それだけでエピソードとしての独立した価値を持っている。また、サシャ・バロン・コーエン演じるキャサリンの夫が、妻と他の男性との関係に嫉妬しながら思わず興奮もしてまうという、一種の変態的な心境に陥る場面も見どころだ。 キュアロン監督は前述したように、原作小説の趣向を大きく変えようとはせず、エピソードをまたぎながら、ゆっくりと各物語の関係性を明らかにしていく。それはシリーズ作品としてはリスクではあるのだが、その映画づくりと変わらない自信に満ちた堂々とした進行こそが、ミステリーとしての原作の魅力を損なわせないことはもちろん、他のドラマシリーズではなかなか味わえない、どっしりとした重厚な印象と独自性を本シリーズに与えているのである。 いったい、キャサリンのことを書いたペーパーバックには、どんな意味があったのか。旅行を楽しんでいる青年や、小説を書く老年の男性にはどのような関係があるのか。そこが見えてくるところに、本シリーズの楽しみがある以上、ここではストーリー展開に踏み込むことはしない。そして、これらの物語には、じつはそれ以外の“仕掛け”も用意されている。そこに気づくことで、本シリーズ全体のテーマもまた、明らかになるだろう。 われわれ視聴者は、現実の世界への認知がそうであるように、用意された物語や登場人物を、自分の考えや願望のフィルターを通して見ることから、なかなか逃れられない。だからこそ、物語に欠けた情報のピースを、頭のなかで埋めようとする。そしてそれは本シリーズの登場人物も同様だ。彼らもまた、物語を自分の理解したいものとして認識するのである。 人間は、思い込みや願望によって、ある人物を都合の良い型に押し込めようともするし、出来事や歴史を修正しようとする。そこにあるのが悪意であれ善意であれ、実像とは異なる歪んだものにしてしまうことは否めない。それが現実のトラブルを生み、対立や争い、戦争にまで繋がってしまうこともある。そこで重要なのは、人間はそもそもそういう習性を持っていて、自分もまた真実を歪めて見てしまうということを理解し、常に意識するということではないのか。 本シリーズの物語はスケールがそれほど大きいものではなく、あくまで個人的な問題を扱っているが、そこからあぶり出されてくるテーマは人類共通の深刻な問題へと繋がっているように見える。さまざまな意見の対立が大きな混迷や悲劇を生んでいるこの時代に、本シリーズを送り出したキュアロン監督の姿勢や目線には、やはり確かなものがあるといえるだろう。
小野寺系(k.onodera)