《ブラジル》記者コラム=学生運動世代の女性前衛舞踏家=小原明子のグローバルな生き方=弓場農場にバレエで画竜点睛
「生活が芸術そのもの」という弓場農場の哲学
61年末に、夫となった小原久雄と共にまっすぐに弓場農場に入った。サンパウロ市から北西に580キロの農村アリアンサにある「祈ること、耕すこと、芸術すること」を実践し続ける農場で、約60人が協同生活している。創立者の弓場勇は、武者小路実篤の作品と思想に触れて人生観を形成した。武者小路は白樺派文人を集合して1918(大正7)年に〃新しき村〃を創設したが成功しなかった。弓場は、アリアンサの近く所在した北欧の小国ラトビア移民の協同農場を参考にしながら、そのブラジル版を目指したとも言われている。 明子がブラジルに来た当時、まだ26歳。同農場を紹介した人は「1年は滞在してほしい」と条件を出した。「場所を変えてみたら、なにか別のモノが見えるかも知れない」と小原明子は気分転換のつもりで引き受けた。「当時、弓場に16歳ぐらいの年頃の娘がいて、『教えてくれ』っていうんですよ。別にバレエ団を作ろうなんて気はさらさらなかったんですけど。二つ返事でOKを出しました。その時に、やるんなら3年は辞めないでって条件を付けたんです。そしたら48年ですから」と笑う。 気分転換のつもりで来たのに、思わぬ展開が開けた。人生そのものが当時の前衛運動の一つハプニングのようだった。ただし、舞台は新宿駅頭でなくブラジルだった。 弓場農場に入って以来、小原は予想外のことに驚きっぱなしになる。「弓場では『やったことないからできない』って言われたことないんです。すごい世界に入っちゃったなと思いましたよ」と思い返す。 「例えば『緞帳がほしい』『スポットライトがあるといい』って言っても、しばらく考えて作ってきて『これでいいか』って」。このような態度は普通の生活の中にはなかった。正確にいえば、芸術家の世界にはあった。 「物作りの原点が弓場にあった。芸術の世界は、なにもないところから創造していくこと。まさにここでの生活がアートそのものだと気付いたんです。なんというか、生き方、モノの考え方が驚異でした。それでのめり込んでしまって」 舞踏は日本独特の精神文化、生活風習を深く反映して生まれ、世界的に有名になった。 小原には舞踏が有名になった理由が分かる。「みんな食うや食わずでやった人ばかり。だから、どれ一つ生半可な作品はない。必死ですから」。普通は「食えないから」とある程度の時間がたったら辞めていく。残った人はそれを超えて突き詰めた人だ。 「舞踏とユババレエは、一見するとまったく別物に見えますが、実は根の部分で共通したモノがある」と分析する。「舞踏が突き詰めたあり方と開拓者精神は似ている。食うや食わずで、生き残りをかけて必死に何かを作り出していく。そこに通じるモノがある」 弓場では忙しい農作業の合間をぬって週3回、練習を欠かさず続けている。最近、その舞台を見ながらふと気付いた。「これだけ真剣に取り組んでいる姿ってなんだろうなって。しかもプロではないのに観客を感動させる何かがある」。 プロではないが、ただの素人のステージとも違う。「生活に対する姿勢がステージににじみ出ている。プロの舞台を見ても、そんなにじみ出てくるようなもののある作品はなかなかない」。 踊りの技術だけなら、上手い人はいくらでもいる。ユバが人を感動させる理由を「一つの思想表現だから」と説明する。 「弓場は将来も変わらぬ根本精神を残していかなければいけない。それが本物であれば残っていく。その表現の一つがバレエ。だから精神が残れば、すなわちバレエも残る。形は変わっても」 2008年の日本移民100周年では8月に日本外務大臣賞、10月にブラジル文化省から第14回マッシャード・デ・アシース記念文化功労賞を受賞し、奇しくも日伯を代表する存在として両国政府から認められた。 小原明子は言う。「いまだに弓場ってなんだか分からないんですよね(笑)。今でも考えています」。(終り)
★ ★ 最後にこの9月7日、第1アリアンサ入植100周年記念盆踊り大会の時の小原明子の写真を載せる。娘小原あやの振り付けの八木節を車椅子で踊っている姿だ。通常は、盆踊りにはあまり参加していなかったそうだが、今回は百周年記念の踊りと巫女舞を小原あやが振り付けし、自身が昔ヨサコイソーランの振り付け指導した子どもたちが成長して、今回の盆踊りで太鼓を披露したので見にきて「とても楽しかった」と語っていたという。NHKスペシャルに2度も扱われた弓場農場―というブラジル日系社会における特徴的な存在に、ユババレエで画竜点睛した戦後移民の見事な生き様だった。合掌。(敬称略、深)