《ブラジル》記者コラム=学生運動世代の女性前衛舞踏家=小原明子のグローバルな生き方=弓場農場にバレエで画竜点睛
土方巽に好かれ、振り切って弓場農場へ
モダンバレエに賭ける情熱――青春の糸が張りつめきっていた1961年、図師明子(旧姓)は当時まだ恋人だった小原久雄(1932―89年、東京)に「ブラジルに行ってみないか」と誘われ、「軽い気持ちで承諾しました」と振り返る。 後にブラジルで彫刻家として知られる小原久雄は、当時まだ東京芸大を卒業したばかりで、画廊で個展を開くなど現代美術協会で活躍し、ネオダダという前衛芸術運動のメンバーだった。土方巽や図師明子が所属していた堀内完・安藤三子ユニークバレエ団で美術の仕事もしていた関係で知り合っていた。 56年に石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞をとったが〃怒れる若者〃はまだ少数の存在であり、前衛芸術にとっても黎明期だった。 戦後日本のバレエ界に強い影響を与えた及川廣信は「1956―60年の土方巽」の中で、有名になる以前の土方巽が「踊りをやめて郷里に帰る」と言い出した時のことを回想する。 いわく「当時まだ闇市のマーケットが残っていた国鉄新宿駅東口広場にあった屋台でのことだった。安藤、堀内、及川、土方の順に並んで話しをしていたが、話しの合間に突然、隣りの土方がそれを言い出したのである。私は思わず土方の顔を見た。彼はそれっきり黙して俯いていた。土方は確かに、掘内、安藤にとって〃持て余し者〃だった。それに彼は金に窮していて、図師明子に無心してはうるさがられていた。小原がひとりブラジル行きを決意したとき、図師は『私もいっしょに行く』と言ったという。『貴方は後で土方がこんなに有名になると思っていましたか?』という私の質問に対して、図師明子の応えは、ただ顔を横に振るだけだった」。 また「60年代の『幻想と空白』」の中では、いったんは秋田に帰った土方巽が、踊りを辞められずに再上京してきた理由を推測し、「土方の故郷である秋田県の湯沢市に行って『西馬音内(にしもない)の盆踊り』を観たとき、はじめてその理由が解けたような気がした。あの踊りの中で生まれ育ったものには、一生踊りが捨てられないだろう。ちょうど寺山修司や豊島重之が青森の『ねぶた』や八戸の『三社祭り』の演劇的な興奮から抜け切れないように。彼等は揺り動かされる自分の思いをどうしても実現させたいため上京してきているのである」と記している。 59年に『禁色』によって土方巽と大野慶人がデビューした。及川は「どこに行っても避けられ、居場所のない土方巽は、大野慶人と『禁色』を共演することによって新人賞を獲得し、その勢いで美術家だけでなく、音楽家や詩人たちとの『ダンスエクスペリエンス』を行っていった」と半世紀前の大転機を記録する。 そして激動の60年代が幕を開けた。61年5月20日、自民党が新安保条約を強行採決したのをきっけかけに、戦後最大の大衆運動が起こる。6月15日、7千人の全学連のデモ隊が国会突入を図って警察隊と大乱闘を繰り広げ、東大生の樺美智子が犠牲となり、デモを見ていた吉本隆明が逮捕された。樺美智子の合同慰霊祭が6月18日に行われ、33万人もの怒り狂う大衆がデモに参加して国会を包囲した。 舞踊評論家の「しがのぶお」はサイトで、その頃の土方巽について、「土方は、そこで図師明子に惚れた。図師は土方を逃れて、ネオダダにも関わった美術家の小原久雄とともにブラジルに渡り、小原明子として、日系人の独自のコミューンといえる『弓場農場』の振付家・演出家となった」と書く。 そんな激動の同年末、小原久雄と図師明子は海を渡った。