介護保険制度が始まるまで、ヘルパーは公務員だった「利用者の入浴介助さえできず」
高倍率をくぐり抜けて地方公務員としてホームヘルパーに
そんな34歳のとき東京の某区で、地方公務員としてホームヘルパーを募集していることを知る。 「介護保険制度がスタートするまでは、ホームヘルパーは公務員でした。某区で、体力測定・面接・小論文の試験を受けると地方公務員になれました」 反骨精神の強いるかさんは「公務員なんて」とバカにしていたが、24倍の倍率をくぐり抜けて、地方公務員として採用される。その後、2年は「退職不補充」で採用が見送られたため、特別支援学校で介助員として働きながら、区からの連絡を待った。 36歳の時に採用の知らせを受け取ったるかさんは、某区の「福祉部障害者福祉課家庭奉仕委員係」の配属となる。主に障害者のケアをホームヘルパーとして行っていたが、徐々に、高齢者のサービスと統合されていった。
新人ヘルパーとして先輩から受けた洗礼
「採用された頃は、ホームヘルパーは、生活保護世帯にしか行けませんでした。利用料はタダです。その後、制度が変わり、生活保護世帯以外にも訪問できるようになりました。当時のホームヘルパーは、1人親家庭・障害者家庭・高齢者家庭のどの家庭にも入っていました」 そのため、サービスの対象は0歳~80歳位までと幅広かったという。トータルで8年間勤務するが、その間で孤独死された5人を発見することになる。 「そういった孤独死に遭遇したのは、全員、公務員時代のことです」 褥瘡(床ずれ)は骨まで見えるほどひどい人が多く、新人教育では、先輩たちから度胸試しをされた。 「外した入れ歯を素手で受け取ったり、普段は自転車移動するところをを徒歩で歩かされたりと、度胸や体力がなければできないので、適性検査のようなものだったんでしょうね」
お風呂に入れることすらできなかった当時の介護サービス
「今では利用者さんに主治医がいるのが当たり前ですが、当時は、高齢者に多い、高血圧・心臓病・糖尿病などの疾患があることも分かりません。通院すらしていない人が多かったです。血圧を測るにも、水銀式血圧計しかない時代だったので、医療従事者でなければ使えませんでした。利用者さんがどんな病気を持っているかも分からない状態でのケアでした」 そんな中で、入浴してもらうことは命にも関わってくる。自宅でお風呂に入れることができなかった。 「だけど、私は利用者さんからのリクエストである、入浴に応えたかった。職場で意見をすると『10年早い!』と言われました。先輩たちには『誰が責任を取るの!』と言われましたが、国の基準として、刑務所の入浴基準を見つけ出したんです。 刑務所の受刑者の入浴時間は、週2回・15分でした。『先輩、刑務所の受刑者の基準はこれなんですよ!』と憲法25条の“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利”を持ち出し、説得しました」 るかさんは、生活保護・高齢者・障害者のケースワーカーに相談し、保健所の保健師やドクターと議論する場を設け、入浴介助のサービスをする権利を勝ち取った。