フェンシング男子エペ団体金メダリスト・山田 優選手「母子家庭で大変ななか続けさせてくれた母に感謝。始めたきっかけは、いじめっ子に勝つため」
病弱だった子ども時代。いじめっ子に勝つためにフェンシングを始めた
東京五輪では日本初となるフェンシングの男子エペ団体で金メダル、今年開催されたパリ五輪では男子エペ団体で銀メダルを獲得した山田優選手。小学2年生からフェンシングをはじめ、メダリストになるまでの親御さんのサポートやコーチとの出会い、これからの目標についてお話を聞きました。 【画像7枚】「山田優選手」インタビュー中の様子 –小学生の頃は、どのような子どもでしたか? 山田選手:ひどい喘息持ちで身体も気持ちも“か弱い男の子”という感じで、外で遊ぶよりは家の中でゲームをしているタイプでした。 習い事は母の勧めでピアノと日本舞踊をしていたのですが、スポーツをやってみたいという気持ちがあって。野球やサッカーに挑戦してみましたが、すこし動くとすぐに喘息が出てしまうのでチームから断られてしまったんです。そんな中、始めたのがフェンシングでした。 –フェンシングとの出会い、はじめたきっかけは? 山田選手:たまたま地元に教室があり、近所に住んでいたいじめっ子がフェンシングをやっていたんです。その子には、なにをやっても勝てなくて「僕もフェンシングを習って勝てるようになりたい!」というのが、きっかけです。それが小学2年生のときで、姉も一緒に通うようになりました。
パリ五輪日本代表チームのコーチを務めたサーシャとの運命的な出会い
–勉強とフェンシングの両立で苦労したことはありますか? 山田選手:中学校ではバスケ部に入りました。平日は部活、土日はフェンシング教室だったので勉強をする時間は、ほとんどありませんでしたね。 ですので、普段の授業で重要なポイントをチェックしつつ、テスト期間前の部活が休みになったときにぎゅっと詰め込んで勉強をしていました。 –フェンシングを競技としてやっていこうと決めたのは、いつですか? 山田選手:部活とフェンシングを続けていたのですが、大事な大会の時期が重なってしまうようになりました。どちらを選ぶかとなったとき、僕としてはバスケを続けたかったのですが、母はフェンシングをやらせたいという想いがあったようで。母の言うことは絶対なので(笑)フェンシングに重心をおくようになりました。 フェンシングを本気でやろうと自分で思い始めたのは中学2年生のときですね。フェンシングには3つの種目があり、僕は「フルーレ」をやっていたのですが、まあ才能がなくて勝てなかったんですよ。練習は厳しいし、勝てなくて楽しくない。何回も辞めたいなと思うことがありましたが、母が辞めさせてくれませんでした(笑)。 山田選手:中学2年生の時、気分転換に「エペ」という別の種目の試合に出てみました。すると、外国人のコーチが私の後ろに来て、「一緒にオリンピックを目指すことに決めたから、お前は今日からエペにするんだ」と言ってきたんです。それが、以来お世話になったサーシャコーチでした。 「初対面で突然なにを言っているのだろう?」と思ったのですが、どうせ勝てないのだからエペをやってみよう、と転向してから本気でフェンシングに向き合うようになりました。 その後、地元の三重県でフェンシングを続けながら、週末や夏休みに東京へ行きサーシャコーチの指導を受けていました。 –サーシャコーチとの思い出に残っているエピソードはありますか? 山田選手:サーシャと僕は、めちゃくちゃ仲が悪かったんです(笑)。海外遠征で個人戦が終った後に反省会をするのですが、サーシャがひとりずつ評価していくんですよ。それで、どんなに結果が良くても悪くてもなぜかいつも最後に僕が怒られる。中2からの付き合いでしたし、僕も思春期などでムカつくなと思う時期があって、サーシャに言い返しては喧嘩のようなことをしていました。 でもいつだったか、練習の昼休みに僕が床で寝ていたとき、サーシャが布団を持ってきて掛けてくれたことがありました。そのとき「サーシャは僕のことを息子のように思っているからこんなに厳しいのだな」と気づいて。サーシャなりの愛なのだと受け止めてからは一気に距離が縮まりました。チームのことやフェンシングのこれからなど、お互いに話すようになって。母子家庭で育った僕にとって、サーシャは父親のような存在です。