『さらば冬のかもめ』リンクレイターから『ホールドオーバーズ』まで、受け継がれるDNA
伝説の天才映画監督、ハル・アシュビーの“地味な凄さ”
アメリカン・ニューシネマの中でも後期に当たる『さらば冬のかもめ』は、例えば『俺たちに明日はない』(67/監督:アーサー・ペン)や『イージー・ライダー』(69/監督:デニス・ホッパー)、『いちご白書』(70/監督:スチュアート・ハグマン)のような、わかりやすい反逆のエネルギーにあふれた作品ではない。“Badass”(バッドアス)の異名を取るバダスキーにしろ、自由人気質の不良ではあるが、「軍服が好きだ」とも嘯く体制の一員だ。冷静な現実主義者のマルホールはべトナム帰還兵で脚を負傷しているが(それが本当にさりげなく示される)、黒人としての自分が生き抜くために海軍に所属している。そして高校を出たばかりの新兵メドウズは、情緒に不安定なところがあり、盗癖が身についていた。そんな彼は海軍の司令官夫人が設置した募金箱からわずか40ドルを盗もうとしただけで(「手を掛けたところで捕まった」らしい)、なんと懲役8年もの罪を言い渡される。囚人として青春の大切な時期を刑務所で過ごさねばならないのだ。 理不尽な体制からの抑圧で若さを棒に振ろうとしている18歳のメドウズを、SPマークを軍服につけたバダスキーとマルホールは護送しながら、悲哀を覚えて情に流され、やがて親密な絆が芽生えていく。もちろんシステムの管理下では無力なままだ。それでも彼らはギリギリの抵抗を旅の中で精一杯顕わにする。内面の奥までは圧殺されない個人の尊厳や反骨心を、硬質の詩情を湛えたヒューマンドラマとして、弱火でことこと煮るように焦らず描出していく。この絶妙な塩梅が、ハル・アシュビーという稀有な天才監督の“地味な凄さ”である。 ロードムービーでもある本作はその珍道中で、ニューヨークの日蓮正宗の集会に3人が立ち寄るシーンがある。“Nichiren Shoshu”と書かれた貼り紙のある小さな部屋で、「ご本尊」(Gohonzon)に向けて若者たちが「南無妙法蓮華経」を唱えている。このお経をメドウズが気に入って、何かと口にするのだが、のちにカフェでそれを聞いた信徒の女性ドナ(ルアナ・アンダース)から声を掛けられ、3人は彼らのコミュニティに案内される。信徒の青年のひとりはニクソン批判を熱く語ったりするが、それを映画はクールかつユーモラスな距離感で見つめるのみだ。