両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.29
アイディアの宝庫
杉本社長の経営哲学は、社員を絶対に解雇しないということであった。当時十和田湖周辺のホテル、旅館は冬季になると閉館していた。雪深い十和田湖へ冬季には観光客が行くことはなかったのである。 仕事にならない冬季の期間、料理長を含め従業員達は、東京などへ出稼ぎに行っていたのであるが、杉本社長は三沢に所有していた山林の樹の枝を払う仕事などをさせて仕事を提供し、同額の給料を従業員全員に払い続けた。その配慮に対し、従業員達は社長に恩義を感じ、今まで以上に懸命に働くようになった。 率先垂範の杉本社長は、広大な観光敷地内を移動する時はいつも徒歩で、急用時以外は社長車を使わなかった。敷地内の道路に煙草の吸い殻やゴミが落ちていることがある。それを社長自ら拾うのだ。大社長となった後もその姿は変わらなかった。本間は、杉本社長のそんな後ろ姿をいつも仰ぎ見ていた。 杉本社長は、新しいアイディアを次々と実行し、事業を発展させた。小川原民族博物館建設もそのひとつだ。その頃、青森県では陸奥小川総合開発が進められており、新たな工場を青森に誘致する計画があった。予定されていた開発地域には昔からの民家が残っており、そこに住む住民達は立ち退きを迫られた。杉本社長は住民達の心情に配慮し、自分の所有する小川原湖の敷地に、民俗博物館を造り古い民家を移転し保存した。 この方策は地元の住民に喜ばれ、立ち退きがスムーズに行われた。また地元民の多くを十和田観光開発の温泉やホテルで従業員として雇用した他、伝統技術や伝統芸能を保存継承している地元民には、移築先民家でその技能・芸能を実演してもらったりした。 また十和田観光電鉄のバスガイドの資質向上のために、観光客の少ない冬期間にガイド学校を開設し、ガイドを教育すると共に、観光バスガイド全国コンクールに出場させて上位入賞させ、十和田観光電鉄ここにありと全国にアピールした。そうした努力により、長らく赤字経営だった十和田観光電鉄の経営は黒字に転換され、株主へ一割配当することができたという。事業家としての、その人徳ある至誠一路の姿から、本間は多くの事を学んだという。 (Vol.30に続く)
Project Logic+山本春樹