両腕で歩くミャンマーの牧師と合気道開祖の「最後の内弟子」 Vol.29
まさに「地獄」の様相を呈している――2021年に発生した軍部によるクーデター以降、ミャンマーでは軍事政権の国軍(ミャンマー軍)と、軍事組織としてのKNLAを有するKNU(カレン民族同盟)やカチン州、シャン州、カヤ州などの武装勢力が組織した反政府(反軍事政権)の連合的武装組織PDFの戦闘が激化している。今年に入り、軍事政権はついに18歳以上の国民を徴兵するとまで発表した。 2024年現在、ミャンマーに向けられる視線は「反民主的な軍事政権VS民主化を求めるレジスタンス的武装勢力」の構図一色に塗りつぶされているが、はたしてクーデターが発生する前のミャンマー、そのディテールに目を向けていた者がどれほどいただろうか。 本連載は、今では顧みられることもなくなったいくつかの出来事と、ふたつの腕で身体を引きずるように歩くカレン族の牧師を支えた日本人武道家を紹介するささやかな記録である。
東北の観光王の薫陶
日本館総本部建設に邁進している時に、本間の脳裏に浮かんでくる人物がいた。流浪の旅をしていた自分を拾い上げてくれた杉本行雄氏だ。杉本社長は人並みはずれた努力家であった。 伊豆の寒村の生まれである杉本行雄は、中学卒業後、北海道の炭坑で働いたことがある。生きるため職を転々とした後、幸運にも渋沢栄一に拾われ、そして直々に薫陶を受けた。 渋沢栄一は明治維新後、日本最初の銀行や生涯に500以上の会社の設立にかかわり、日本資本主義の基礎を築いたいわば経済界の英雄である。その栄一氏とその孫であり日本銀行総裁、大蔵大臣を務めた渋沢敬三の二代に杉本行雄は仕えたのだ。 昭和21年(1946年)、終戦後の財閥解体により渋沢農場を整理する必要に迫られ、渋沢農場の木材を製材し進駐軍に納めることとなり、杉本行雄が派遣されてきたのだが、製材事業が一段落したあと、十和田湖にホテルを建てるなどし、観光事業に踏み出した。一時、十和田観光電鉄や東京タワー観光バスの社長にもなるが、この鉄道・観光バス事業は労働争議のためうまくいかず、結局、怪商小佐野賢治に売却することになる。 仁徳を旨とする杉本社長が、労働争議で失敗するとは腑に落ちない思いがするが、労働争議の裏に、あるいは小佐野の黒い影があったのかもしれない。いずれにしても杉本は東北においては希有の事業家として名前を残した男であった。