「スランプは成長のとき」 日・韓・米で活躍したオランダ人元プロ野球選手に聞く、キャリア転換時に大切なこと
16歳で始まったプロ野球人生
バンデンハーク氏はスポーツ好きの一家で生まれ育ち、小さいときから野球のほか、柔道、サッカー、水泳、スケートなどさまざまなスポーツを楽しんできた。その中から最終的に「マイナースポーツ」の野球を選んだのは、熱狂的な野球ファンの父の影響だったという。 地元アイントホーフェン市のチームで頭角を現したリック少年は、まもなく国家レベルで試合に参加するオースターハウト・ツインズに移籍。11~12歳のときにはナショナルチームとして2回、日本にも来日したことがある。 「日本は完全に異世界でした」。オランダと違って、日本ではいたるところに球場があり、子供たちがいつもキャッチボールをしているのに新鮮な驚きを覚えたという。「将来、日本のプロ野球チームに入るとは夢にも思わず、スーツケースいっぱいに日本文化を詰め込んで帰りましたよ(笑)」 16歳のとき、アメリカからスカウトされ、現地で学校に通いながら野球のトレーニングを受けるプログラムに参加。9カ月のプログラムを終えた後は、米マイナーリーグとの契約で、アメリカの野球システムの中に組み込まれた。5年間さまざまなレベルの野球を経験した後、メジャーリーグで6年間プレイした。 「もちろん、いい時も悪い時もありました。とても孤独でした。何度か手術も受けたし、ケガもした。これが野球選手として最後の年なのか、それとも続けられるのか、と疑問が渦巻く中、それを乗り越えなければならなかった。前に進めたのは、野球選手として最高レベルで競争をしたいというビジョンがあったからです」
メジャーリーグからアジアへ
アメリカで活躍して11年目、ピッツバーグ・パイレーツとの契約が切れた段階で、キャリアの転機が訪れた。 「メジャーリーグのチームは、僕の契約を売ろうとしていました。それは僕が彼らにとって『Aプラン』ではないことを示していた。僕は先発投手でありたかったし、その機会を与えてくれる韓国のサムスン・ライオンズに移籍することに決めました。28歳のときでした」 言語を解さず、文化の違いに適応するには時間がかかったが、韓国のトップレベルの球団で戦えたことは、彼の人生にとって大きな収穫だったという。韓国でマインドフルネスに出会ったことも集中力や感情に好影響を与え、それは彼の目覚ましい成績にもつながった。サムスン・ライオンズは韓国シリーズで優勝を果たした。 2年間、韓国で過ごした後、バンデンハーク氏は15年に福岡ソフトバンクホークスに移籍。同チームは当時、工藤公康監督が率いる最盛期にあり、バンデンハーク氏も日本シリーズの優勝に貢献した。彼は日本の野球文化について振り返る。 「日本人は人間関係において、リスペクト、ハーモニー、階層を重視する。目上の人にダイレクトに意見を言わないことが多いため、チーム内やコーチとの間にプランやビジョンについての誤解が生じ得る。何でもダイレクトに言うオランダとは明らかに違う文化ですね。一方で、チームとして集団的に戦うことに焦点を当てていて、それが日本のチームの強みだと思います」