時間外労働時間の上限緩和、「働きかけた経済界が一番問題」。小室淑恵さんが指摘する「総裁選」の論戦で足りないもの
過去最多の9人が立候補している自民党総裁選(9月27日投開票)。派閥の裏金事件を巡る党改革や経済政策などを中心に論戦が交わされる中、一部の候補者が掲げた「労働時間規制の緩和」を巡り、議論が沸き起こっている。 【画像】夫が取得した育休期間、パートナーの満足度が一番高かった期間は? 時間外労働の上限は2019年4月以降、原則として「月45時間・年360時間」となった。背景には、健康確保や少子化対策、女性のキャリア形成、男性の家事・育児推進を阻む「長時間労働」の問題がある。「時間外労働の上限は国や国民にとってとても大切なもの。総裁選の立候補者はせっかく沸き起こった議論を無視せず、働き方を考えるきっかけにしてほしい」ーー。ハフポスト日本版は、こう訴えるコンサルティング会社「ワーク・ライフバランス」(東京)の小室淑恵社長にインタビューした。
2019年以降に起きた「ゲームチェンジ」
ーー2019年に働き方改革関連法が施行され、時間外労働の上限規制が始まりました。ここに至るまでの歴史や意味についてはどう見ていますか。 2008年に大手居酒屋チェーンで発生した過労自殺の問題など、労働を巡る悲しい出来事はこれまでにたくさんありました。 長時間労働が「やる気や忠誠心を図る手段」のように使われ、離職や転職を考える判断力を失わせるほど睡眠不足にさせられる。それを「熱心だ」と評価している世界が当時はありました。 経済界にとって時間無制限の労働力が手に入る状況だったのです。若者を食い潰し、女性という労働力の価値には見向きもしなかった。それを改める空気もありませんでした。 しかし、2019年の法改正以降は確実に変わってきています。ジェンダー平等の問題がタブー視されずに報道されていますし、女性管理職の比率公表の義務付けも始まりました。 ーー時間外労働の上限規制はどのような役割を果たしてきたのでしょうか。 企業が従業員を評価する上での「ゲームチェンジ」が起きたことが一番の鍵です。 それまでは、遅くまで残業をしている「帰らない人」を「熱心に働いている」「会社に忠誠心を持って働いている」「このスタンスが会社の成長に必ずプラスになるんだ」と評価していましたが、残業時間の上限が決められたことで「決められた時間の中で成果を上げられる人」が評価されるようになりました。 企業にとって驚きだったのは、「法令順守だから帰りなさい」と命じられても帰らない人がいることでした。「熱心だから」「忠誠心がある」ではなく、「長年育児をしていないため、家に居場所がなくて帰りづらい」「残業代を稼ぎたい」という理由で職場にいたのではないか、と気づき始めました。 「業務量が本当に多いから」とも思っていたのですが、早く帰宅できた日も新橋(東京)あたりで飲食をして時間をつぶしてから帰る「フラリーマン」という人たちの実態が報道され、「どうやら業務が終わっても帰れない状態が、家族との関係性でできてしまっているのだ」とはっきりしてきました。 家族との関係においては、ボタンの掛け違いがおきる出産時点での参画が大事だとして、男性育休の取得推進が進んだのも、こういった背景からでした。 帰らない人を忠誠心が高く、熱心な社員だと思っていた時代は残業が評価されていましたが、このゲームチェンジを機に、時間当たりの生産性が低い社員として評価されない方向に転じたことが、時間外労働の上限規制の大きな役割でした。 また、企業から大きな懸念を示されていた勤務間インターバル制度の議論がおこなわれるようになってきたのも成果です。2019年に「努力義務」となり、終業から次の勤務まで11時間の休息をとっている企業も増えてきました。 ーー時間外労働規制が緩和されれば、「24時間365日働ける人」が評価される「昭和スタイル」に戻ってしまう懸念があります。 慶應大の山本勲教授は、今回の議論を受けて「ピア効果」について説明しています。 希望者に長時間労働を認めると、周りの部下や同僚も同様のことをしないと評価されない風土が生まれてしまうことをいいます。24時間365日働ける人が評価され、子育てや介護などがある人は見向きもされない、というかつての世界に戻ってしまいます。 今回、総裁候補者に熱心に労働時間上限緩和を働きかけた経済界が一番問題だと思いますが、ではなぜそんなことを働きかけるのか、ということもよくわかります。 「人手不足なのに、労働する時間まで減らされたら日本経済を維持できない」と考え、その解決策として「行き過ぎた働き方改革を見直せ」「労働時間の上限規制を緩和」となるのですが、働きたい人がもっと長時間働けるようにしたところで、それで増えるのはもはや稀有な一握りの時間で、焼け石に水なのです。 これを認識できておらず、昔の日本のように「元気のありあまっている労働力が本当はどこかにいっぱいいる」と思っているのです。実際、大企業の経営企画室やスタートアップに集まる経営陣などにはいるので、そうした人たちに囲まれていると判断を誤ります。悪気はないけれど、解決策が古いのです。 人手不足の解決策は、むしろ290万人いると言われている、能力も意欲もあるけれど、労働市場に出ていない女性たちです。 無制限に生活をむしばむ働き方の労働市場には出られない。でも、きちんと守られた労働市場ならもう一度働いてみよう、年収の壁を越えて働こうという人が、出てこられるような労働市場にすること重要です。 また、現在すでに仕事と介護、仕事と育児、仕事と治療などの両立に四苦八苦しながら踏ん張っている人が仕事を続けられるようにすることも大切です。 解決策を残業時間を延ばすことに頼るのは焼け石に水であり、多様な人材が働けるようにすればまだまだ未来があります。