最新の健康法に傾倒する子ども、我が子に食習慣を強制する親…愚かなのはだれ?
同じ食事をとることが、家族の証?
子供たちと同様に、その親たちもみな、「意識の高さ」をうかがわせる人々ばかり。広々とした家に住み、仕立てのいい服を着て、先進的な教育を子どもに受けさせたいと願っている。だからこそ、子供から授業内容を知らされた親たちの反応は、基本的にはみな好意的だ。 ふだんから食生活に気をつかって生活している親は、「意識的な食事」を素直に受け入れ、自分たちも真似をしようかなんて嬉しそうに語ってみせる。少食なんてありえないと猛反対するのは、ひとり息子を寄宿舎に入れているシングルマザーだけ。彼女は、明らかに他とは違う労働者階級の家に暮らし、週末に帰る息子のためにせっせと美味しい料理をつくっている。 いくつもの家庭で噛み合わない親子の会話を聞くうちに見えてくるのは、歪んだ親子関係。表面的には良好な関係を築いているかに見えて、各家庭にはそれぞれに歪みが生じている。そんなつもりはないと言いながら、つねに娘の体型に批判的な視線を向ける親。成績や外面だけを気にする親。子供に無関心であるがゆえに、教育の内容にまったく頓着しない親。そのなかで、美味しい料理を息子に食べさせたいと張り切る親は一見、とても愛情深い人物ように見える。でも子供が食べたくないと言っているのに、「子供は食べるのが仕事!」と無理やり大量の料理を食べさせるのは、それもまた親のエゴとはいえないだろうか? 結局のところ、賛成派も反対派も無関心派も、誰もが自分の考えを子供たちに押し付けているだけなのだ。親たちの自分勝手な考え、それは食をめぐる家のルールとして、この映画のなかに現れる。子供には、私たちと同じ価値観を持ち、同じように食事をしてほしい。それが我が家のルールとして、子供たちを縛りつける。 子供に対して、自分と同じものを食べ、同じ食事方法をとることを望んでしまうのは、それこそが家族の証だと信じているからだ。もっとも顕著な例は、ある少女と母親との関係。体型維持のため過激な食事制限をしている母親は、少食を実践するため、ものを食べてもすべて吐くようになった娘を目の当たりにし、心配するどころか、心から嬉しそうな微笑みを浮かべる。食に対する考え共有できた喜びに、彼女は打ち震えている。あなたはやっぱり私の子ね、というわけだ。ただし、娘の拒食がさらに激しくなっていくにつれ、母親の喜びは恐怖へと変わっていく。 つまり新しい食のありかたを提唱するノヴァク先生は、それぞれの家のルールをぶち壊す恐るべき乱入者なのだ。まるでハーメルンの笛吹き男みたいに、彼女は穏やかな笑みと口調で、子供たちを各家庭の食卓から攫っていく。そうして、いつのまにか自分たちと同じ食事をしなくなった子供を前に、親は「これでは家族が成り立たない」と慌てふためく。その様子は滑稽だけれど、決して笑えない。 同じ釜の飯を食う、という言葉があるように、食べることがあるコミュニティを強固にする手段なのだとすれば、同じ釜の飯を「食べない」ことで、新しいコミュニティをつくることも可能だろう。ただしそれは、家というコミュニティを信じる人たちにとっては、恐ろしい手段でもある。 食は、人々を親密に結びつけ、同時に人々を徹底的に敵対させる。そういえば、映画のなかで行われる対話の多くは、家の食卓で行われていた。綺麗に盛り付けられた皿を前で繰り広げられる、食べることをめぐる終わりのない議論。それはなんて美しく、恐ろしい光景だろう。
月永理絵