「えっ、そういうことだったの?」実は味や客層を守るためではなく…京都の“一見さんお断り”の深いワケ
東京→NYから京都に移住して3年。いけず、一見さんお断り、おばんざい、和菓子、おみくじ……。“よそさん”である著者が京都のあれこれに体当たりするエッセイ『京都はこわくない』(仁平綾著/大和書房)より、一部を抜粋し掲載します(前後編の前編)。
一見さんお断りは「味や評判を守るため」ではない?
一見さんお断りって、憎らしい。 あるとき、祇園の割烹に電話をしたら、予約は当然ずいぶん先まで埋まっているうえ、誰かの紹介がなければ入店できないと言われてしまった。でた! 京都特有の一見さんお断りである。 店側にさまざまな事情があることはわかる。でも、常連客と一緒か、あるいは紹介がないと入れないなんて、選り好みされているようで悲しいし、不公平に感じてしまう。間口が狭すぎるよ、いじわるー! などと電話を切ったあと、ひとりぷりぷりした。まあ、美味にありつけなかった私の、ただの恨み言なのだけれど。 「でも、あれですよね、客層や評判、なにより味を守るために、一見さんお断りシステムは不可欠なんですよねぇ、きっと」 ある夜、京都に代々暮らす知人と食事をしながら、知ったふうな口をきいたら、 「京都の一見さんお断りは、そんなんちゃうよ」 と軽やかに覆されて、びっくりした。え、違うんですか? 「そもそも、お茶屋の文化やねん」 ご存じのとおり、京都には芸妓さんや舞妓さんが存在する。お茶屋というのは、彼女たちを手配して、料理や酒を用意し、客のために宴席を提供する人たちだ。お茶屋と置屋(芸妓や舞妓を抱え、育成する場所)が集まる一帯は花街と呼ばれ、祇園甲部(ぎおんこうぶ)、宮川町、先斗町(ぽんとちょう)、上七軒(かみしちけん)、祇園東が京都の五花街とされている。 そんなお茶屋が貫いてきたのが、一見さんお断りのルールなのだそうだ。なぜかというと、お茶屋ではレストランのようなお会計をしないから。
お茶屋の意外すぎる商法
「『おおきに』だけ。伝票も出てけえへん。あとで会社に請求書が届くだけの話」 昔の京都の旦那衆は財布を持ち歩かず、手ぶらで、どこも顔パスだった。せっかくお座敷で遊んだあとに、「はい、お会計」とは無粋じゃないか、との美学も背景にあるとかで、代わりにあとからきっちり飲み代を納める仕組み、つまりツケが慣例となった。お茶屋と客の信頼関係のうえに成り立つ決済方法、とうぜん誰でもウェルカムというわけにはいかないのである。 しかもツケは、お茶屋での飲み代やお座敷代だけに限らず。別の料理屋でごはんを食べようが、呉服屋でなじみの芸妓に着物や帯を買おうが、すべてお茶屋にツケるという。なんと! 「お茶屋が一括管理してしまうわけ。まあ外商みたいなもんやね」 顧客の旦那衆を囲うための、お茶屋の巧みな商法。それが一見さんお断りだったのである。 ちなみに、もしもツケを払わない不届者がいたら、紹介者がその支払いをかぶる連帯責任が適用される。飲み代だけだったらたかが知れているものの、食事代、着物代、帯代など、すべてのツケをかぶるとなったら、いくら旦那衆とはいえおおごとである。だからこそ、信用と責任の一見さんお断りが、機能してきたわけだ。 お茶屋のツケはいまだに健在で、このご時世にクレジットカードもペイペイもなし。一見さんお断りって、綿々と続いてきた京都の文化なのだなあ……。となると、たしかに割烹の完全紹介予約制は、まったくの別物である。 それにしても気になるのは、お茶屋のお値段。舞妓さんや芸妓さんをお座敷に呼ぶと、いったいいくらかかるのだろう。伝票ナシ。明細もナシ。仰天金額が記された請求書が、刺客のように届くのでは……。こ、こわい。