ソロモンを舞台とした日米軍の死闘は“華々しい勝利”に置き換えられた
昭和17年(1942)7月6日、ガダルカナル島に日本海軍の飛行場設営隊が上陸し、飛行場建設を開始。滑走路が完成した2日後の8月7日、米海兵隊約2万がガダルカナル島と対岸のツラギ島に上陸してきた。以来、ソロモンでの死闘が繰り広げられる。そんな中、開戦1年を記念する特大号が発刊された。 ツラギには250名の部隊がいたが、全滅するまで抵抗。そしてガダルカナルにいた日本軍は設営隊約2500人が中心で、250人ほどの海軍陸戦隊がいただけであった。そのためわずか1日の戦闘で飛行場とその一帯を奪われ、部隊はジャングルへ撤退し援軍を要請した。 以後、約半年に渡りガダルカナル島を舞台に日米両陸軍の死闘が繰り広げられることとなる。この戦いでは、常に日本側の輸送船はガダルカナル島に到着する前に、多くが撃沈もしくは撃退されていた。そのため上陸した陸軍部隊は、補充兵員をはじめ武器弾薬、食糧に至るまで不足してしまう。「ガ島は餓島となった」などと揶揄されるほど、陰惨な戦場と化していったのである。 だが『写真週報』の昭和17年11月11日号では、島での苦境には触れずにソロモン海域における戦闘、とりわけ日本海軍の華々しい勝利を「帝國海軍は、またも南太平洋海戦に大戦果を擧げ、無限の實力を全世界に示した。(旧字ママ)」と謳い上げている。 ここで扱われている海戦は、10月26日にソロモン海域で行われた、南太平洋海戦のことである。この戦いは日本陸軍第17軍の総攻撃支援のため空母翔鶴(しょうかく)、瑞鶴(ずいかく)、瑞鳳(ずいほう)、隼鷹(じゅんよう)の4隻のほか戦艦4隻、重巡洋艦8隻などからなる艦隊を派遣し、一気に陸海の形成を逆転せんとしたものであった。 一方アメリカ海軍は、空母エンタープライズ、ホーネットの2隻に戦艦1隻、重巡洋艦3隻などからなる布陣で、日本艦隊を待ち構えていた。この戦いにおける日本側パイロットには、ミッドウェー海戦で乗艦していた空母を失った者も多く、士気は旺盛であった。 こうしてソロモン諸島の北の海域で、双方航空機による戦闘が展開された。その結果、アメリカ側は空母ホーネットが撃沈され、エンタープライズは中破、それに駆逐艦1隻が沈没した。対して日本側は空母翔鶴と重巡筑摩(ちくま)が大破、空母瑞鳳が中破であった。これによりアメリカ海軍は、太平洋で稼働させられる空母が一時的ではあるにせよ、1隻もなくなるという事態に陥ったのである。 この戦いは、日本の機動部隊があげた最後の勝利といわれている。しかしガダルカナル島の陸軍部隊への支援には失敗。島のヘンダーソン飛行場(日本海軍が建設)にも被害はなく、この海戦以降も日本の輸送船団に対する空爆は、緩むことなく続けられた。 さらに勝利を収めたにも関わらず日本が不利な状況となる要因となったのが、この海戦で100機近い空母搭載機と、140名を越えるベテランパイロットを失ったことだ。空母を離着陸するには、高い技量が必要とされた。新任搭乗員がその技量に到達するのは、昭和18年(1943)6月以降と割り出された。 そして昭和17年12月2日号は、表紙に東条英機(とうじょうひでき)内閣総理大臣が登場、大東亜(だいとうあ)戦争開戦一周年の特集が組まれている。記事で目を惹くのは、見開きを使い迫力ある写真を掲載した巻頭特集だろう。本文などは一切なく、キャッチコピーのような見出しが1本あるだけという、大胆なページ構成になっている。 それが陸軍、海軍、製鉄所、戦車工場、造船所、軍用自動車工場、蒸気機関車工場と7見開き14ページも続く。その後も南方の資源地帯の活用を促す記事、アメリカの戦備分析、世界地図を塗り替えている枢軸国といった記事がその後に掲載されている。 さらに日本が統治している国々の近況を伝えるニュースや日本国内の様々な出来事を伝える写真特集、さらには太平洋からインド洋にかけて暴れ回る潜水艦部隊や、シンガポール駐屯の陸軍部隊の近況なども伝えられている。通常号の倍近いページ数と、驚くほど多くの写真が掲載されているため、販売価格は通常の10銭ではなく20銭となっている。これを見ていた読者の多くは、日本の勝利を疑うことはなかったであろう。
野田 伊豆守