「父は戦犯に問われた」スガモプリズンで描いた絵が語る父の苦しみ 娘がたどる父が体験した戦争の惨禍
日本が戦争に負けてから、来年で80年を迎える。 日本が受諾したポツダム宣言には、「戦争犯罪人の処罰」が含まれていて、戦後、戦犯裁判が開かれた。日本の指導者ら28人が被告となった「A級戦犯」、そして捕虜虐待など通例の戦争犯罪が問われた「BC級戦犯」は7カ国で5700人が被告となった。 【写真で見る】戦争犯罪に問われた父 スガモプリズンで描いた絵
戦犯に問われ、人生が変わった父
福岡市に住む眞武ナナさん(74)。ナナさんの父、眞武七郎さんは医師だった。赤ちゃんだったナナさんを抱く父の写真は、開業していた医院の前で撮影したものだ。父は55年前、61歳でこの世を去った。かつて医院があった場所を訪れたナナさん。医院の奥には自宅があり、20歳過ぎまで過ごしたという。父との思い出の場所は、面影もなかった。 眞武ナナさん「あれがなければ、スガモのあれがなければね、父の人生もまた別のものになっていたんだろうなと思うんですけどね」
語らなかった父
眞武七郎さんは、日本が戦争に負けた後、戦争犯罪に問われた。三男の清志さんと長女のナナさん。父が囚われたのは、戦犯たちが収監されていたスガモプリズン。しかし、そこでの話は聞かなかったという。 三男清志さん「あんまり話さんです。ただ、ちょくちょく東條英機がどうだったとか、そういう話は聞きましたけどね」 長女ナナさん「あまり聞いたことないですね。したくはなかったのかもしれないですね」 米軍に捕らえられた眞武七郎さん。東京、池袋にあったスガモプリズンに1947年9月2日、収監された。
父が問われたのは「九大生体解剖事件」
太平洋戦争末期の1945年5月、九州に墜落したアメリカ軍のB29爆撃機に搭乗していた兵士らは、捕虜として、福岡市におかれた西部軍に集められていた。そのうち8人が、西部軍監視の下、九州帝国大学医学部で、医学上の実験材料とされた。 人間は血液をどれくらい失えば死ぬのか、血液の代用として海水を注入することができるのか、肺をどれくらい切り取ることが可能なのか、生体実験が行われた。
「肝臓を食べた」自白を強要され被告に
その中で、摘出された肝臓を持ち帰った見習い軍医がいたことから、「宴会で肝臓を食べた」というストーリーをアメリカ軍の調査官が作り出した。 当時、陸軍病院の軍医だった眞武七郎さん。証言が強要された結果、「食べた」と自白した七郎さんら5人が被告とされた。
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