15代将軍・徳川慶喜は明治維新後どうなった? 激動の時代を生き抜いた最後の将軍が背負い続けた罪
NHKドラマ『大奥』は遂に大団円を迎え、ラストでは幕末の大奥と幕府を支えた人々が明治の世を生きる姿が未来への希望と共に描かれた。さて、その場面では登場しなかった徳川慶喜だが、彼は明治という新たな時代をどのように生きたのだろうか。徳川最後の将軍の足跡を辿ってみよう。 ■徹底抗戦の声に抗えず戊辰戦争に突入 江戸幕府最後の将軍、15代・徳川慶喜は慶応3年10月に、朝廷が政治的主体となって成立する新政府の手に、国政の運営を全面的にゆだねることを決断し、政権を朝廷に返上した。その後、慶喜は、薩摩藩の大久保利通(おおくぼとしみち)らが計画立案した王政復古クーデターの実施を越前藩側から事前に知らされながらも、黙認した。このことは、慶喜が幕権の回復をもはや望んではいなかったことを端的に語っている。そして、このあとクーデターに激昂した幕臣や会津藩士らの心を鎮めるために、彼らを引き連れて大坂へと向かった。 しかし、慶応4年(1868)の正月3日、自身の上洛(慶喜の新政府要職への起用を前提とした、彼への上洛命令が朝廷からまもなく出されようとしていた)に先立って、安易なかたちで先発部隊の京都への進発を認めた結果、鳥羽・伏見戦争を引き起こし、江戸へあたふたと逃げ帰るという生涯最大の失態を演じるこになる。 慶喜は、このまま大坂に留まれば、城内の強硬論者(それは幕府への嫌がらせ行為を執拗に繰り返す薩摩藩との一戦を強く求めるグループであった)を勢いづかせ、事態が収拾不可能となる(その結果、へたをすれば朝敵となる)ことを恐れて、「敵前逃亡」を選択したのである。 だが、それは大坂城内にいた旧幕兵や幕府寄りの諸藩兵を見捨てて、ごく一部の側近らを伴って江戸へ逃げ帰るという、将軍にはふさわしくない、あまりにも身勝手で情に欠ける行動であった。当然、このあとやっとの思いで江戸に帰ってきた彼らの強烈な不信を招くことになる。慶喜のヒール(悪役)としての評価も、ここに定まったといってよかろう。ついで慶喜は幕臣らが自分に押した卑怯者との烙印(らくいん)に耐えて、明治の世を生きることになる。 その前に江戸に逃げ帰ったあとの慶喜の動向について少し記すが、これは、ひたすら新政府への恭順(きょうじゅん)を表明するものとなった。彼は抗戦を強く主張する幕府関係者や会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬らの声を抑える一方で、新政府側に恭順の意を伝えるための行動に打って出る。その一つが、幕臣の山岡鉄舟を大総督府参謀の西郷隆盛がいた駿府(静岡)に派遣したことである。 ついで鉄舟が西郷と命懸けの会談を行った結果、「江戸無血開城」への途(みち)が開かれることになる。すなわち、江戸城を明け渡すことなどを条件に慶喜の生命を保証することを西郷は自分の一存で確約したのである。ついで舞台は江戸に移り、世に名高い勝海舟と西郷との二度に及んだ会談で、慶喜の処刑を中止すること、水戸で慶喜が謹慎生活を送ること等が決定をみる。 そして、慶喜は、このあと、水戸でのごく短い謹慎生活をへて、徳川家ゆかりの地である静岡に再度移り住むことになる。そして、以後、明治30年(1897)に最後の居住地となる東京に戻ってくるまで、慶喜は長い隠居生活を静岡で過ごすことになった。 ところで、徳川慶喜家には家扶(かふ)や家従が明治5年1月から大正元年(1912)12月にいたる間の、慶喜および家族の日常生活について記した「家扶日記」(全43冊)が残されている。これを見ると明治期の慶喜が江戸幕府に代わって成立した近代天皇制国家との無用のトラブルを注意深く避けながら、ひたすら趣味の世界に生き続けたことがよく判る。 彼は謹慎生活が解除されると、驚くほど多彩な趣味の世界に入りびたることになる。銃猟・鷹狩・囲碁・投網、それに謡(うたい)や能・小鼓・洋画・刺繍・将棋・写真などがその対象となった(家近良樹『その後の慶喜』)。したがって、明治期の慶喜は、将軍職にあった時よりも、はるかに幸せな時間を過ごせたと思われる。事実、生命の危険に脅かされることもなく、子女にも恵まれ、母や気心のしれた近親者との交流も十分にもてた。 そして、このような状況下にあった慶喜に、やがて春が訪れることになる。幕末期が遠い過去の世界となるにつれ、彼は数少ない歴史上の生き残り(それもビッグな)として、世の注目を浴びるようになり、かつ再評価の対象と次第になりだしたのである。そして、これにつれて、彼の公的な復権がなされるにいたる。 その最たるものが、明治35年(1902)の6月に公爵の位を授けられたことである。爵位の中でも最上位のものを授けられたことで完全な復権を成し遂げた慶喜は、以後近代天皇制国家に静かに包まれ、最晩年を生きることになった。そして、大正2年(1913)11月22日に、この世を去ることになる。 監修・文/家近良樹 歴史人2023年11月号『「徳川15代将軍ランキング』より
歴史人編集部