「死にかけの人間」を食べて生き延びる…漂流船で実際に起きた「凄惨な事件」は許されるのか
国家なきところでは人権よりも自己保存
この話は、実際にあった話に私が創作を付け加えたものである。実話は1884年に起きたイギリス船籍のミニョネット号事件である。 難破した船の乗組員4人が救命ボートで漂流した末、生き延びるために最も衰弱していた独身のキャビンボーイを殺してその肉を3人で食べたという事件だ。 私はその4人のうち、2人を人権派弁護士と功利主義の哲学者に変更して、極限状況の中で彼らがキャビンボーイを殺して食べることをどのように正当化するかと考えてみたのである。 その結果、犠牲にされる生命の選択のために、功利主義の裏ヴァージョン「最大多数の最小不幸」という判断基準が使われ、人権も〈国家なき状況〉においては各人の自己保存への権利という自然権に転換するという話になった。 ここで重要なのは、人権は国家や裁判所がある状況でなければ機能しない、ということだ。 一般的に法的権利というものには、先にホーフェルドの議論を借りて述べたように、義務など対応するものが必要である。もしこの救命ボートの一員がホーフェルドだったら、彼はどう考えただろうか。 「人権も法的権利だとすると、ボートの中の他人にはそれを守らねばならない義務があることになる。たとえばキャビンボーイの生存権を守る義務を私が負う。そして私の生存権を守る義務を船長が負う。船長の生存権を守る義務を哲学者が負い、哲学者の生存権を守る義務をキャビンボーイが負い、……あーつまり、みんなが生存権をもち、同時に他人の生存権を守らねばならない義務を負うから、誰も誰かを犠牲にできないわけね。結局全滅するのを待つしかないわけだ」ということになるだろう。 これはこれで法的権利論として一貫しているし、人間としてはこういう選択肢を選ぶこともできるだろう。しかし、哲学的にはそれだけが答えなのだろうか? 救命ボートのたとえ話で言及したように、国家が生ずる以前から人間がもつ自然権として、自己保存の権利がある、という説がある。トマス・ホッブズ(1588─1679)が論じたもので、これによれば人間は、最終的に自分が生き延びるためにあれこれ手を尽くす自然権があるということで、たとえ国家において死刑判決を受けた者でさえ、生き延びるために逃走することが理論的に可能だという。 人権とか法的権利の成立云々はあくまでも国家がある平常時、当事者たちが無事に生きている状況でこそ論じられることであって、いざ自分の生命が危機にさらされている場合にはそんなことを言ってはいられない。 「カルネアデスの板」という寓話をご存知だろうか? 船の難破で海に放り出された男の目の前に一枚の舟板が浮いていた。男はそれにしがみついたが、もう1人つかまろうとしている。そいつもつかまれば2人とも沈んでしまうので、男は自分が生き延びるために後から来た者を突き飛ばして水死させた。その後の裁判で男は罪に問われなかった、という話である。 何としても他人を排除して自分だけが板につかまって生き延びるしかない、という話だ。 全滅より1人でも生き残った方がよい、という点では功利主義的でもあるが、それ以前に生きるか死ぬかの究極の場合には、誰もが自分が生き延びることを第1に考えざるを得ず、それでやむなしということである。 こうして誰かの犠牲の上に生き延びた人々は、後日裁判所で、行なったことの是非や責任、非難可能性の度合いを決められる。その時にようやく規範としての人権が登場するのである。 こうしてみると、人権を守る義務を持つのはおもに政府であり、かつ人権は、極限状況で私人間で起こった出来事に対して、事後に裁判で用いられる規範概念であるということができる。 一般の人々も、諸機関も、企業もできる限り皆の人権を守るべきだという規範的要求が可能なのは、人類が君臨して国家を作り、国際社会がまあまあ機能している状況に限られるのだ。 さらに連載記事<女性の悲鳴が聞こえても全員無視…「事なかれ主義」が招いた「実際に起きた悲劇」>では、私たちの常識を根本から疑う方法を解説しています。ぜひご覧ください。
住吉 雅美