理想のない現実論は危険、現実のない理想も危険、でも理想は実現可能である
人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。4回目は協創型社会と競争型社会をテーマにつづります。
この連載は未来について考えることを主旨の一つとして謳っているのに、そういえば、過去のことばかり述べてきました。未来について考えるには過去が参考になるからなのですが、今回も過去について語ることになりそうです。 今回は、分断と調和、分析と統合、競争と協創といった基本的な価値軸について考えたいと思います。 たまたま、私は、学会や調査などの目的で、最近、図1の地域を訪問しました。特に選んで行ったわけではなく、たまたま学会があったからとか、たまたま知り合いがいたからといったような理由で行ったところも多く、特に何かの代表地点というわけではないのですが。
古き良きものが残されている
しかし、なんとなく、共通点があります。古き良きものが残されているというか。バリ、フィジー、ハワイは島なので、他の文化と海を隔てています。ブータンは山間の地域で、やはり他の地域と断絶しています。アラスカやセドナ(アリゾナ)のネイティブアメリカンも、ヨーロッパから人が入って来る前からの長く独自の文化を残しています。 感銘を受けた点の例を述べましょう。 まずはフィジー。フィジーに行ったのは、『世界でいちばん幸せな国フィジーの世界でいちばん非常識な幸福論』の著者である永崎裕麻さんに会いに行くためでした。この本にも書かれている例ですが、フィジーのレストランでビールを飲んでいると、なんと隣に座ったフィジー人が勝手にそのビールを飲み始めるというのです。昔読んだ『パパラギ』にもフィジーのお隣サモアの酋長の言葉が書かれています。彼らには本来、所有という概念がなかったり、「私」と「私たち」の区別がなかったりするそうなのです。シェアの世界です。争いがない。 ハワイも元々は似たような文化圏だったのでしょう。もともと所有の概念は希薄で、争いを好まず世界を愛する人たちだったと言います。 ブータンで聞いた、お店の話も印象的でした。ある地域にレストランが並んでいる。夕方に行くと、1軒だけ繁盛していたそうです。おいしいのでしょう。しかし、それなりに売れると、売り切れて店じまい。すると、別の店が繁盛。売り切れて店じまい。結局どの店も売り切れて店じまい。ある人が、最初に売り切れた店のご主人に聞いたそうです。「あなたの店が一番流行っているのだから、もっと材料をたくさん仕入れて売ればもっと儲かるではないですか」ご主人は答えました。「そんなことをしたら、他の店の利益を奪ってしまうではないですか」 ブータンでガイドさんから聞いた他の話。あるお寺を見学した時、ブータン人のガイドさんは私に言いました。「ブータンは大乗仏教だからね、お参りをする時、まずは、世界中の人や動物の幸せを願ってくださいね。そのあとで、自分のことを願ってもいいですけどね」。日本も大乗仏教の国ですが、みなさんはお参りする時、世界中の人の幸せを願っているでしょうか。 アラスカやセドナ(アリゾナ)のネイティブアメリカンの話も似ています。ネイティブアメリカンの首長の言葉をネットで検索してみると、たくさんの含蓄のある言葉を見つけられるでしょう。ビジョンクエストという成人の儀式を体験してきた日本人の友人から聞いた話が印象的でした。人間はなぜ存在するのか。その部族では、「人間はケア・テーカーとして存在している。森をいい状態に保つために」と考えるそうです。