いっけん地味?でもあなどれない実力「京王電鉄」。雰囲気の違う系統が、同じ沿線になった理由とは…その歴史を太平洋戦争まで遡る
◆京王帝都電鉄 ではなぜ、このふたつの系統が、同じ沿線になったのかというと、戦時中の「大東急」によるものだ。 東京の南西部の私鉄が、すべて東急の傘下になったのである。 太平洋戦争が終わると、「大東急」となっていた各社は、別々の道を歩むことになった。その際に、「京王帝都電鉄」(現在は京王電鉄)を名乗ることになり、旧京王と旧帝都が同じ鉄道会社となった。 軌間の違う京王線系統と井の頭線系統が併存するのは、こういった経緯があるからである。 戦後の京王は、新宿駅近くに併用軌道があり、路面電車の規格から脱皮できないでいる状態をどうするかが課題となっていた。小さい車両、短い編成、都心側の多すぎる駅。このあたりをどうするかで京王は苦戦した。 と同時に、鉄道事業だけではなく、沿線価値をどう高めるかも京王の課題となった。 そして、バス事業の強化や、百貨店・マーケット事業の設立に力を入れると同時に、不動産事業も重視するようになった。 こうして、路面電車ベースの鉄道事業から、沿線ビジネスの強化へと、京王のビジネスモデルは変わっていったのだ。
◆地位の確立 京王が現在の礎(いしずえ)を築くのは、1963(昭和38)年4月の新宿駅地下化である。 これまでは新宿駅近くは地上を走り、道路と平面で交差していたが、道路には車があふれ、鉄道の本数も増大するなかで、抜本(ばっぽん)的な改善が求められる状況にあった。 この状況を改善したうえで、架線電圧を600ボルトから1500ボルトに昇圧(しょうあつ)、同年に新宿から東八王子(現在の京王八王子付近)に特急を走らせ始める。 新宿駅を地下化し、京王百貨店をつくり、京王ストアなど沿線に関連ビジネスを展開する一方、鉄道事業も強化したことで、京王は現在の地位を築いていった。車両も6両から8両、10両へと長編成化し、駅施設も整備が進んだ。 京王がさらに発展していったのは、多摩ニュータウンのアクセス鉄道として相模原線を開業させてからである。 1971(昭和46)年4月の京王多摩川~京王よみうりランド間を皮切りに、京王多摩センター・南大沢・橋本と延伸し、都心へのアクセスを引き受けた。 小田急も多摩ニュータウンへのアクセスを引き受けたものの、現在に至るまで京王の利用者が多い状態となっている。 また都心部では、1980(昭和55)年3月に京王新線が都営新宿線との相互乗り入れを開始した。 なお京王新線自体は、1978(昭和53)年10 月に開業し、初台(はつだい)や幡ヶ谷(はたがや)のホームはこちらに設けられた。 このような施策により、京王は郊外住宅地やニュータウンと都心部を結ぶ鉄道としての地位を確立した。 都市富裕層が集まる井の頭線沿線と、郊外に居を構える大卒ファミリー層が集まる京王線・相模原線系統が、京王沿線の豊かで生活水準の高いイメージをつくりあげていったのである。 また、京王の沿線には中高一貫校や大学も多く、子育てをするのに最適な沿線だという印象を多くの人に与えている。 近年では多摩動物公園エリアを強化し、「京王あそびの森HUGHUG」や「京王れーるランド」で、「選ばれる沿線」施策に力を入れるようになった。 京王電鉄沿線は、鉄道サービスの水準を少しずつ強化し、あわせて沿線をつくりあげることで発展してきたといえる。 いっけん地味に見えるが、実力はけっしてあなどれない沿線なのだ。 ※本稿は、『関東の私鉄沿線格差: 東急 東武 小田急 京王 西武 京急 京成 相鉄』(河出書房新社)の一部を再編集したものです。
小林拓矢
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